辛亥革命4ー孫文と袁世凱

辛亥革命4ー孫文と袁世凱

ヨーロッパ諸国による植民地化政策では、国内で大きな内乱を起こし既存政府の転覆を図るのが基本的な手法です。日本同様に、植民地化の危機を抱えていた当時の中国においても、内乱の回避が重要な課題であったといえます。現在の歴史では、孫文と袁世凱が協力体制を取り、清帝国を終焉させ、絶対帝政から民主共和制へ政権を平和的に移譲する形で辛亥革命を成功させたような理解になっているようです。

しかし、私は辛亥革命で孫文と袁世凱が協力したとは考えていません。そもそも、孫文は中国南部の広東省出身であり、反政府軍事クーデターの中心人物です。一方、袁世凱は、中国北部の河南省(黄河の南)出身であり、清帝国では軍事総司令官のような地位にあった人物です。袁世凱は、出身地から、もしかすると被支配層の漢民族の出身だったかも知れません。しかしながら、清帝国終焉後は、孫文を中国から追放しています。そうしたその後の歴史の展開を考えれば、現在の一般的な理解の様に、孫文と袁世凱が協力体制にあったとは考え難いと思います。

孫文の革命

孫文は、日本における坂本龍馬と同様、中国南部で漢民族の独立革命を指揮しました。要は、南部の軍事クーデターを起した中心人物です。辛亥革命では、南部の15の省(小国家)の軍事同盟を纏め独立宣言に至っています。孫文は革命活動の当初は日本へ軍備や資金の支援を求めていましたが、日本政府は清帝国との関係から孫文への支援は断わられます。仕方なく、その後は、アメリカやイギリスなどへ活動資金の支援を求めて世界中を飛び回ったようです。当時は、中国南部地域の南側であるベトナムやビルマ(ミャンマー)などは既に西ヨーロッパ諸国(イギリス、フランス)の植民地となっていました。孫文が日本や海外で活動している間にも、中国南部地域では西ヨーロッパ諸国による革命運動への支援が進んでいたと考えます。民族独立が目的でしたが、大義名分としては「民主革命」です。日本の明治維新と同様に、民主または共和制への政治体制変換を目指しました。この当時は、民主革命運動の支援が進むとは、中国南部地域の植民地化政策が進んでいたことを意味しました。

袁世凱の革命

袁世凱は清帝国側の人間であり、南部の軍事クーデターを鎮圧する立場の人間です。孫文とは全く逆の立場の人物です。中国は黄河以北である「北支」、黄河と揚子江の間である「中支」、揚子江から以南である「南支」と、地理的な理由から、地域が大きく3つに分けられます。袁世凱は北支の出身で、出身民族は不明ですが、漢民族に属したかも知れません。孫文らによる南部(南支)での民主/民族独立革命の影響は、当然、中支と北支にも及んだといえます。

北支は北京のある地域であり、満州民族の征服王朝であった清帝国の直轄的な地域といえるでしょう。そこで、南部のような大規模な民主/民族独立革命が起きれば、清帝国が一気に崩壊するだけでなく、中国全土で地域ごとに細かく分離し、国内全体での内乱が生じかねません。そこで、清帝国の軍部を掌握する袁世凱は、清帝国に、日本の立憲君主共和制を導入し、政治体制の改革を試みたようです。しかし、日本とは異なり、清帝国の旧体制からの脱却には及ばなかったようです。一方で、北支での大規模な民主/民族独立革命を回避するには、清帝国を君主制より新体制の共和制に移行する必要がありました。これが民主革命の大義だからです。内乱回避には「大義=理由」を潰すしかありません。そこで、袁世凱は、日本の「大政奉還」を習い、清帝国の皇帝を退位させ、清帝国を終焉させたのです。清帝国が帝国として終焉することには、漢民族の民族解放という意味が出るからです。そして、民主政府の達成という意味で、北京に共和制の臨時政府の樹立を行いました。

注)立憲君主共和制:世襲君主が存在し、尚且つ、政権運営(実務)については、
          政治執行権を持つ者を世襲君主以外から選出する政治形態。
          明治以降は「選挙」は導入されたが選挙権は有力者に限られた。

共和制:世襲の君主が存在しない政治体制ー選挙権が国民全員にあるとは限らない。
民主制:国民投票(普通選挙)で国家代表を選べる政治体制ー選挙権が国民全員にある。

辛亥革命と明治維新の決定的違い

清帝国では、通常歴史と異なり、新興国の侵略により旧帝国の君主が処刑される事無く、「大政奉還」での徳川幕府同様に、帝位を退く(執政権を放棄する)のみで、帝国としての国家終焉に至りました。日本との大きな違いは、清帝国は、統治下の漢民族からすれば異民族だったことです。日本は天皇家は、一般的な解釈としては「皇帝」ですが、「皇帝」である以上に、日本民族の「民族長」という意味が強い存在です。他国では「民族=国家」です。日本では、民族の中に「部落」が複数あり、「部落=国家」です。江戸も越後も、明治以前は「国」として分離していましたが、全て「日本民族」に属しており、最終的には「民族長」の判断に従うのが日本の政治形態の根本であり、「暗黙の了解」に近いルールと言えるでしょう。

清帝国には、日本のような「民族長」は存在しませんでした。満州民族は征服王朝であり、清帝国の皇帝は所詮は漢民族の民族長ではありません。そのため、求心人物である「皇帝」が居なくなった後は、全ての政権執行権の全権は新しく樹立した「共和制政府」に移行することになりました。しかし、これは北部地域(北支)のみの政府に留まりました。日本のように「天皇家=民族長」が、旧政府と新政府の対立を吸収することは出来ませんでした。 結果、孫文率いる南部地域(南支)は、清帝国より完全分離し、袁世凱が北部の北京に樹立した共和政府とは全く別に、南部の南京に臨時政府を樹立し「中華民国」として独立国家宣言をします。臨時政府を樹立するとは、それ自体が「独立国家宣言」と同じ意味を持ちます。

的には無関係であり、南部の民族独立革命が北部へ波及するのを恐れ、清帝国側で一種の「大政奉還」をしたに過ぎません。皇帝より政府執政権を共和新政府へ全権譲渡させたということです。だからこそ、皇帝の主権譲渡(大政奉還)後も、清国は朝廷(国家)を継続しており、袁世凱はその朝廷の下で「北京政府」を樹立したのです。孫文は「中華民国」の初代大統領ですが、袁世凱は本来は「北京政府」の初代大統領であり、南部の「中華民国」の第2代大統領であることは有り得ないといえます。

その後も、北部の清国の朝廷の下で「北京政府」は継続し、1924年10月に北京政変で清国の朝廷が終焉し、国家から北京政府が分離した後も、1928年の「北伐」で南部の蒋介石政府に敗退するまで、「北京政府」は北部の独立執政政府として継続していたと考える方が正しいでしょう。