辛亥革命2-日本の植民地化の危機
日本の植民地化の危機
当時の朝廷(天皇家)と江戸幕府(既存の委任政府)は、日本という国家がヨーロッパ諸国の植民地化の危機に直面していることは十分に理解していたでしょう。そこで、戦国時代の様な「国内での大規模な内乱」を回避することを最重要課題として政策を進めていたといえます。「第2次長州討伐」は「停戦」には至ったものの、江戸幕府(既存の委任政府)が撤退する形で収束を図りました。当然、反政府側の薩摩、長州の勢いは収まらず、東方の江戸幕府(既存の委任政府=絶対王制)に対抗し、西方の薩摩、長州、土佐が中心となり、これに京都に程近い福井、更に水戸出身の徳川慶喜に対抗する尾張の徳川家が加わり、「新政府の設立」へ向けて動いて行きます。
朝廷(天皇家)と江戸幕府(既存の委任政府)としては、新政府軍と旧政府軍との間での東西戦争は絶対的に回避しなくてはなりません。新政府軍の後ろ盾は、日本の植民地化を目論むヨーロッパ諸国です。残念ながら、新政府に手放しで政権を完全委任するわけには行きません。日本が乗っ取られるのは明白です。そうした事情を経て、1967年には、国家危機を理解しない新政府軍と、国家危機を回避しようとする江戸幕府(既存の委任政府)との間で、何度も会談が続いたようです。結局、国内での深刻な内乱を回避するためには、どちらかが引くしか選択の余地が無かったと言えます。そこで、朝廷(天皇家)と江戸幕府(既存の委任政府)としては、徳川江戸幕府が、委任国家統治権を、民族長である天皇へ返上することで、国内での大規模な内乱を回避し、政権を遷移する選択をしました。これが「大政奉還」が実現した理由です。「大政奉還」により、大規模軍事クーデターも、深刻な東西戦争も無いまま、明治新政府が樹立するに至りました。
また、この政権移譲に伴い、新政府側は、ヨーロッパ諸国(特にイギリス)との関係性を完全に断ち切る必要がありました。そのため、イギリスの支援を背景に、薩長同盟を纏め、国内での軍事クーデター勃発の原因となった「坂本龍馬」を完全に潰す必要があったのです。坂本龍馬が長崎で武器商人であるグラバーと親密な関係であった事は史実として有名です。薩摩長州の下級武士が、高価なイギリスの最新鋭銃器を使えたのは、坂本龍馬がパイプ役として存在したためです。坂本龍馬の暗殺は「謎」とされていますが、本来の歴史から見れば、暗殺されて当然です。
日本という国家がヨーロッパ諸国の植民地化の危機に直面している中、イギリスの手先となって国内に大規模な内紛(政府転覆)を主導したのです。当然、朝廷からも幕府からも「国家テロリスト」として追われるでしょう。武士として尊厳ある「切腹」など許されず、「暗殺」処分。更には「暗殺」ではありますが、実際には「惨殺」でした。イギリスとの接点を完全に潰すためには、絶対に生き返る事が無いよう、めった刺しで「惨殺」し、確実に息の根を止める必要があったと言えます。
「大政奉還」は、1867年11月9日です。坂本龍馬の暗殺(惨殺)は1967年12月10日。大政奉還の1か月後に、イギリスとの重要なパイプ役を完全暗殺。「大政奉還」をした後ですので、暗殺したのは朝廷側の人間で当然です。その直後、1968年1月3日に、後の明治政府の前身となる、明治維新政府(臨時政府)が樹立されています。当時は、江戸幕府(既存の委任政府)側にフランス、薩長新政府側にイギリスが、「支援」という形で接触していました。江戸幕府(既存の委任政府)が突然終焉する事で、フランスとの関係は終焉します。坂本龍馬が突然暗殺されることで、薩長新政府側とイギリスとの関係もパイプ役を失い終焉か希薄になるでしょう。
ちなみに、この時、イギリスとフランスは、坂本龍馬と江戸幕府それぞれに軍事兵器提供を行っていました。江戸幕府は国家政権を担っており巨額の軍事資金借款までは行かなかったかも知れません。一方、坂本龍馬の方は(薩摩長州も含め)、イギリスからは相当な軍事資金借款を受けていたはずです。明治新政府は、朝廷(天皇家)の直接統治の形式となり、あくまでも新政府の役職として薩長などの人材登用に至っています。坂本龍馬が新政府に関与しないことで、イギリスからの相当な軍事資金借款についても、全く無関係の日本の新政府としては「罪人として処刑した個人」の返済義務を負う必要は無くなったといえます。もしかすると、坂本龍馬を惨殺した理由としては、こちらの方が大きかったかも知れません。
明治政府樹立以降、日本がヨーロッパの技術や医術の導入をドイツに頼ったのは、こうした経緯からです。ドイツは歴史的に見ても、イギリスとフランスとは敵対関係である事が多かった国です。