辛亥革命1-辛亥革命と明治維新

辛亥革命1-辛亥革命と明治維新

辛亥革命とは、1912年2月12日、約300年続いた清帝国が皇帝退位により終焉するに当たり、その原因となった民主革命であると言われています。しかし、その後の歴史の流れから、この辛亥革命を判断すると、民主革命というよりは、「漢民族の民族独立を目指した武装決起」とするのが正しいと思います。もちろん、一般的に、この時期の民族独立の動機(理由)として「絶対君主制から民主共和制への移行」が「政権打倒の大義名分」になっていました。そのため、歴史的な焦点としては「民主革命」に光が当たり、その背景にある「異民族間紛争」という「実態」には目が向かず、結果、根本的な理解に矛盾が生じているといえます。

本来の歴史的な意味合いとしては、「辛亥革命」とは、清帝国という中国の「統一政府」が崩壊し、漢民族と満州民族との「異民族間紛争」の激化により生じた「国内民族紛争」の発端となった事件(軍事クーデター)であったとするのが正しいでしょう。そして「国内民族紛争」の視点で見直せば、孫文と袁世凱の関係、夫々の役割がより明確に見えて来ます。

次に、この辛亥革命は、当時の中国の指導者達の多くが「日本の明治維新(大政奉還)」を手本として起こした革命だったことも知っておくべき事実です。残念ながら、日本では今も「坂本龍馬が英雄」という歴史解釈ですし、「大政奉還」の本当の意味も正しく認識出来ていないと言わざるを得ないので、「中国の指導者達が、なぜ「日本の明治維新(大政奉還)」を手本にしたのか」ご理解頂けないかも知れません。(この辺りは本サイトの「基礎編」をお読み下さい。)しかしながら、立ち位置的に言えば、辛亥革命においては、孫文=坂本龍馬、袁世凱=徳川慶喜+勝海舟に近い存在として考えれば、何が起きていたのか日本人としては理解し易いと思います。

坂本龍馬と明治維新

坂本龍馬は、江戸末期において、日本の南西部地域で「尊王攘夷」を大義名分に掲げ、徳川幕府を終焉させようと「反政府軍事活動=軍事クーデター」を起こそうとした人物です。薩長同盟は徳川幕府を倒すため(政府転覆)が目的の軍事同盟でした。中国での孫文、その後の蒋介石の動向を理解するうえで、坂本龍馬は、まず抑えておくべき人物といえます。

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1864年7月、当時、長州(現在の山口県西方地域)が軍事クーデターを起こす危険があったため、朝廷(天皇家:国家主権=日本民族の族長)は、江戸幕府(既存の委任政府)に対し、長州潘の軍事鎮圧(長州討伐)を命じました。これは、日本史では「第1次長州討伐」と呼ばれています。これは現代風に表現すると、既存政府側による、国内「軍事クーデター」の軍事鎮圧行動でした。切っ掛けは、京都で長州藩が武装行動を起こしたことですが、もっと大きな理由としては、この軍事鎮圧には、日本の植民地化危機の回避という目的と意味があったと言えるでしょう。当時は、何より、日本の植民地化危機の回避が国家としての最重要課題であったといえ、そうした時期に、長州は、ヨーロッパ諸国の植民地化政策の一環である「国内での内紛」を起こそうと「軍事クーデター」を起こしたのですから、これは「征伐されて当然」だったといえます。

長州討伐は2回行われました。1864年の長州征伐(第1次長州討伐)で「反政府軍(長州軍」の完全鎮圧もは至らなかったため、再度、朝廷は「反政府軍事クーデター」の軍事鎮圧を行うことを決定したのです。2回目(第2次長州討伐)は1966年6月が戦闘の開戦だったようです。薩長同盟は1966年3月ですが、当然、これは「第2次長州討伐」を見越しての軍事同盟だった言えます。日本では有名な話ですが、この同盟は坂本龍馬が纏めました。

「第2次長州討伐」では、江戸幕府(既存の委任政府)からは、徳川家の総大将である徳川家茂が出陣。兵力差からすれば江戸幕府が勝利出来る戦いでした。しかし、徳川家茂が1966年8月29日に大阪の陣中で病死します。これは政府発表としては「病死扱い」ですが、年齢を考えれば、当然、「毒殺」。勝ち目の無い戦いで、敵の総大将を暗殺するのは良くある戦術です。これにより、江戸幕府(既存の委任政府)側には、徳川家の世継ぎ争いも生じます。混乱に乗じて敵を討つのです。

「第2次長州討伐」の開戦前に、既に、薩摩と長州が軍事同盟し、戦域は現在の広島県にまで広がっていた状況でした。本来、兵力差を考えれば、反政府側(薩摩長州)が軍事同盟した後であっても、最終的には徳川幕府側が勝利出来たでしょう。しかし、イギリスの軍事支援を背景とする薩長との戦いは、本格化すれば長引く可能性は高かったといえます。内乱の拡大は必須です。これを回避するため、江戸幕府(既存の委任政府)は、徳川家茂の逝去を理由に「和睦」と「停戦」の方向へ方針転換したと言えるでしょう。元々、長州征伐は長期化する予定では無かったことも要因でしょうが、諸々交渉後、翌年1967年1月には「停戦」に至ります。

しかしながら、この軍事クーデターが切っ掛けとなり、その後に、徳川幕府(既存の委任政府)が統治権を朝廷に返上し、徳川家は将軍職を廃し、時代は新政府へ移行することになります。中国でも、孫文が、南部の各地域(XX省)で軍事同盟を纏め上げ、南部で軍事決起を行いました。坂本龍馬が取りまとめた薩長の軍事同盟の結果、徳川幕府が終焉し、孫文が取りまとめた南部14省の軍事同盟の結果、清帝国が帝国として終焉しています。日本と中国では、国の大きさや、南北での関係性(異民族同士)など、大きく異なる点がありますが、当時の中国の指導者が、日本の明治維新を手本として、激しい内戦を避けつつ、民主国家への転換を目指したと言われるのは、これが理由です。