北伐の真相 

北伐の真相 

「北伐」とは、南方から軍隊を動かし北方勢力と戦うことを言います。基礎編でお伝えした通り、中国の歴史とは、北方系異民族による征服王朝の変遷の歴史です。純粋な漢民族の国家が成立した時期もありますが、殆どの時代において、中国南部地域を主体とする漢民族は征服支配または統治されて来ました。そして北方系異民族の王朝が弱体化する度に、漢民族からは民主独立の動きが起っていました。

「北伐」の「伐」は「征伐」などに使われる文字である通り、「敵を攻める」という意味があります。長年支配下に置かれた南部漢民族からすれば、北方系異民族を「敵」と見ていたとしても不思議はありません。そのため、中国の南部漢民族の歴史から見れば「北伐」となります。しかし、世界史として俯瞰的に見れば、支配下に置かれていた南方の民族による民族独立戦争となるでしょう。

中国では、南部地域の漢民族による辛亥革命により、北部の支配層だった満州民族との間に、南北での対立構造が生じました。一般的な歴史認識では、蒋介石が「北伐」を起こした理由は、孫文の意志だったとされています。また、孫文が二回に渡って、「北伐」を計画していたとされています。しかし、孫文は、蒋介石の北伐の前に、自ら北京へ赴き、北京政府と南部政府との「平和的融合」を協議しようとしていました。北京へ到着して以降、北京で亡くなっています。病死とされていますが、南北の平和的統一を阻止したい勢力から「暗殺された」可能性は非常に高いでしょう。

蒋介石は、孫文が亡くなった後、陸軍学校の校長から一気に政府総統まで上り詰め、北部に対して軍事侵攻(=北伐)を開始します。大義名分としては、「孫文の意志」だったとしてです。

日本は日清戦争に勝利した後、中国東北部で経済活動を展開して行きました。しかし、1920年代は、中国全土が、蒋介石による「北伐」で大混乱に陥る中、日本は基本的にそれを傍観する姿勢を取っていました。一方、「北伐」では、蒋介石軍により、北部地域の日本人居留民が攻撃(虐殺)される事態も起きていました。そのため、現地在住の日本人保護のため、日本から軍隊を派遣することになりました。


北伐の真相 一覧 


北伐の真相1ー第一次支那動乱

支那動乱とは、蒋介石の「北伐宣言」に伴って起きた中国での南北政府間での「南北内乱戦争」のことを言います。1926年7月の蒋介石の「北伐宣言」から始まった北伐は、中国を2分する大きな内乱戦争に発展しました。単なる「北伐」で… 続きを読む ...
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北伐の真相2-蒋介石の北伐

1925年3月に孫文の死後、蒋介石は「中国南北政府の統一」を目指し「北伐」という軍事侵攻を行っています。一般的な歴史では、「北伐」は孫文が生前に、2度、計画をしたことになっています。これは孫文が明治維新を評価していたこと… 続きを読む ...
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北伐の真相3ー清浦子爵の天津訪問

1925年3月の孫文の死後、蒋介石は、孫文の側近であった人物を次々を失脚させ、時には暗殺し、翌年の1926年3月には、汪兆銘の失脚に成功します。こうして、蒋介石は、孫文の政治軍事基盤を一手に掌握するに至ります。蒋介石の政… 続きを読む ...
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北伐の真相4ー蒋介石軍の南支攻略

1926年7月(昭和元年(大正15年))の蒋介石による「北伐宣言」から始まった「支那動乱」=「中国南北戦争」は、最終的には、1928年6月、蒋介石率いる南政府軍(南軍)の勝利で終わります。蒋介石の政権基盤は、中国南部の大… 続きを読む ...
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北伐の真相5ー済南事件

済南事件とは、蒋介石の「北伐」侵攻により、南部の蒋介石軍が1928年済南という街に到達した際、一部の兵士が、商業埠頭に居住する日本人の店舗を襲い掠奪行為に及び、更には、日本人十数名を虐殺した事件です。当時、中国に対し多額… 続きを読む ...
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