北伐の真相5ー済南事件

北伐の真相5ー済南事件

済南事件とは、蒋介石の「北伐」侵攻により、南部の蒋介石軍が1928年済南という街に到達した際、一部の兵士が、商業埠頭に居住する日本人の店舗を襲い掠奪行為に及び、更には、日本人十数名を虐殺した事件です。当時、中国に対し多額の商工業投資をしていた日本は、この事件を契機に、中国の南北紛争に巻き込まれて行くことになります。蒋介石の残虐行為は、政権掌握後(孫文の死後)は、その過激性と残虐性を深めたことで、日本には大きな脅威となったといえます。日本は本土から現地日本人居留民の安全保護のため、蒋介石軍との戦闘を視野に軍隊の派遣を決めるに至りました。蒋介石軍が意図的に在留邦人を襲わなければ日本は中国へ大きな軍隊を派遣する必要は無かったでしょう。

支那動乱の中で起きた済南事件は、当時、蒋介石軍によって日本が受けた残虐行為の一例を物語る事件です。「歴史写真」では中国人の犠牲者については記載がありませんが、南部政府の蒋介石軍(南軍)は、当初より軍事制圧下の都市で、一般市民に対して略奪や虐殺を行う傾向がありました。日本は、かなり早い段階から、蒋介石とは対立していたため、日本人居留民は度々蒋介石軍の襲撃の的となっていました。済南事件では、治安部隊として派遣されていた日本軍と、北京に向けて「北伐」進軍中の蒋介石軍の間で市街戦が起きました。

この済南事件も、蒋介石の「北伐」の理解と同様に、現在の歴史の一般的な認識が、当時発行の「歴史写真」という雑誌から読み取れる「真相」とはかなり異なって理解されていると感じます。当時、中国全土は、さながらアメリカの南北戦争の様を呈していました。「歴史写真」の記事では、南部政府の蒋介石軍を「南軍」、北部政府の北京政府軍または張作霖軍を「北軍」と称しています。

以下は、蒋介石の北伐で起きた支那動乱に関する「歴史写真」からの写真記事です。

 

昭和3年6月(1928年6月)発行「歴史写真」から
昭和3年5月(1928年5月)支那動乱

済南に向ふ機関銃隊(支那動乱 其の一)

記事: 蒋介石氏の率いる南軍は此の春以来漸次北伐の軍を進め連戦連勝の勢ひに乗じて、五月一日ついに済南を陥れ、約十萬に近き軍隊は続々済南に入城したが、同月三日に至り南軍の一部は上長の命令を無視し商埠地内(商業埠頭)に居住する日本人の店舗を襲い掠奪を擅まにし邦人十数名は遂にその毒牙に罹りて身の毛もよだつ虐殺を蒙り、次いで彼我両軍の間に市街戦が開始された。

軍用列車済南に向ふ(支那動乱 其の二)

記事: 済南陥落と共に蒋介石は二日入城。その要請に依り我軍は市内要所の警戒設備を撤去したところ、三日早朝、南軍の一部、賀耀祖等の率いる軍隊は突如、在留邦人の居住区域に襲来して掠奪を開始し、さらに悪魔の本性を発揮して姦淫その他あらゆる凌辱を興へたる後、残虐正視するに堪えざる惨殺を敢てしたので、我が済南派遣部隊は一斉に立って敵と銃火を交へたが、敵は多勢、味方は小勢、死傷者続出して我軍屡々苦戦に陥り完全に敵を掃蕩することは一時甚だ困難に見受けられた。写真の左下は済南の急を救はんとて青島を出発する歩兵第十三聯隊。右上は歩兵第四十七聯隊の乗ずる軍用列車済南に到着せんとする光景。

南京大虐殺では、上記の記述の様な残虐行為を日本軍が一般民衆に行ったとされていますが、実際には、こうした軍隊の残虐性は、蒋介石軍に早期から見られる特徴であったと言えます。蒋介石はかつて日本に留学していたこともある程の親日家だった人物です。親日家の孫文の後継者であれば、本来は、日本とも友好的な関係を模索して然るべきところです。しかし、日本とは敵対関係になっていきました。その経緯には、蒋介石が南部漢民族の独立に当たり、イギリスの軍事支援を受けた事が大きかったでしょう。

そして「北伐」もまた、大規模な内乱を勃発させる為に敢えて起こした軍事侵攻であり、日本に対しても、支那動乱(済南事件)以前より、南部の上海、南京などでは、同様の蒋介石軍による襲撃事件は起きていました。いずれも表向きは一部の兵士が勝手に行った事になっていますが、真相は、日本軍を中国へ本格進出させ、蒋介石軍と戦闘状態に持ち込む事を意図をもった挑発行為だったといえます。

イギリスやフランス勢力は、最終的には日本も含めてアジア全土を植民地化する目論見でいたのは明白です。南北統一の成立後に、中国の植民地化が達成出来れば、敢えて日本と友好関係を築く必要はありません。逆に、中国本土で戦争に持ち込み、日本を敗戦に追い込めれば、日本の領土分割の話を強行することも視野に入ります。そこで、蒋介石に、中国内で反日抗日を掲げさせ、中国人、日本人、双方に敵対心を植え付けるよう目論んだと言えます。これが蒋介石が執拗に反日抗日に拘った理由といえます。

こうして「北伐」=「支那動乱」では、済南での邦人襲撃事件から、中国国内で、日本軍と蒋介石軍との間での初の軍事衝突が勃発しました。それ以前は、中国での日本軍の役割は、各主要都市での邦人居留区における日本人保護であり、蒋介石側との大きな軍事衝突はむしろ避けていたといえます。しかし、この済南での日本人襲撃での惨殺行為は、「歴史写真」の記事の通り、日本人の居留や経済活動を著しく損なうだけでなく、済南の2000人の在留日本人と派遣軍が全滅するか、日本から援軍を送り撃退するかという、非常に緊迫した状況を生み出すに至ったことは確かです。

済南市街戦に於ける日本軍の防備(支那動乱 其の三)

記事: 五月一日済南に入城した蒋介石氏の南軍は一時軍規の厳重を示したが、その内賀耀祖等の率ゆる一隊は三日朝来、同市商埠(商業埠頭)地内に於ける日本居留民を襲いて掠奪虐殺を擅まにしたるに依り日本軍は是に對して應急(応急)の處置(処置)を執り彼我の間に忽ち砲火開かるるに至り、我軍の兵数少なきに比し、敵は数倍の大軍を持って頑強に抵抗し、我戦屡々苦戦に陥ったが、力戦奮闘漸くにして一時敵を沈黙せしめ在留邦人の生命財産を安堵せしむるに至った。写真は商埠地付近に於ける市街戦に我歩兵第四十五聯隊の物々しき防御振りである。

 済南を退却泰安に引揚中の南軍(南軍=蒋介石軍)

記事: 5月三日一時沈黙したる済南の南軍は同月八日に至り再び大挙逆襲し来り、その勢い猛烈にして我が派遣軍の苦戦譬ふるに物なく福田第六師団長は、力戦敵を潰滅せしむるか、若しくは二千の在留邦人と共に師団の全滅を招くか二つに一つの悲壮なる決意を示して部下を激励し、善戦遂に敵を掃蕩すると共に済南城に立籠もりたる南軍三千に対し八日より三日間師団の全力を挙げて猛烈なる包囲攻撃を行い、十一日夕刻に至り済南城の占領と共に、城の内外全く敵影を認めざるに至った。事件勃発以来我軍の戦死者四十九名、重軽傷者百九十七名である。写真は済南を退却、泰安に引揚げつつある南軍。

済南での日本人居留民は2000人程だったようです。済南城には蒋介石軍は3000人はいたようです。現地の治安部隊と日本からの派遣部隊を合わせても、蒋介石軍の兵力の方が日本軍より勝っていたでしょう。蒋介石軍はイギリスに武器や兵器の提供を受けていましたが、軍隊全体に高価な兵器が行き渡るほどでは無かったのかも知れません。この時は、かなり緊迫した状況下での激戦であったことが伺えます。

福田司令官の活躍

記事:圖(図)らずも惨たる戦禍の巷と化した支那西南は在留邦人二千餘名、総額一億二千萬圓の投資地である丈に、帝国は最初から此の戦禍を重要視していたので、是が防護の全責任を背負って立った福田第六師団長の苦衷は察するに餘りあるものあり、しかも弱勢の軍を提げて難戦苦闘能く敵の大軍を掃蕩。邦人の被害をより以上に大ならしめざりし功績は実に甚大なるものがあるというべきである。

昭和3年7月(1928年7月)発行「歴史写真」から
昭和3年6月(1928年6月)済南城の占領

右ページの記事の続き

記事: 五月二日済南に入城したる蒋介石氏の率いる南軍は翌三日に至り、俄然態度を一変して我が居留民に危害を加へ、財産を掠奪し凌辱、殺傷、暴虐の限りを盡したるを以て、福田派遣軍司令官は断然是に武力を加へ、激戦数刻、忽ち敵を沈黙せしめたるところ、超えて五月7日午後に至り残餘の南軍は「日本人を鏖殺せよ」と叫びつつ大挙再び我軍に抵抗し来りたるを以て、福田司令官は、此の南軍の暴挙に対して退いて邦人を全滅せしむるか、進んで敵を全滅するかの二途の外なきを知り、敢然起って派遣軍全員に出動命令を発し、茲に再び彼我両軍の猛烈なる戦闘は開始させられ、次いで済南城内に立籠る方振武軍約5千の兵も我に対して頑強に反抗の気勢を示したるを以て、齋藤旅団天津派遣隊は九日午後済南城入口の正門を占領し、城内督辨公署、省長公署等を目標に猛烈なる砲撃を開始し天地に轟く殷々たる砲声は忽ち城内を大混乱に陥らしめたるも、暴虐残忍なる方振武軍は容易に辟易せず、茲に於いて我軍はさらに勢力を加へ、西門は齋藤、岩倉両旅団、難問は十三聯隊、東南方面は十五聯隊を以て包囲攻撃し十日朝に至り齋藤旅団の第五十聯隊は城の内壁を爆破して南軍の真只中に躍り込み、敵と咫尺の間に迫りて盛んに手榴弾を投じたが、同夜深更、更に激戦あり、南軍は遂に敵し難きを知って逐次城外に退却を初め、翌十一日午前四時、済南城は完全に我軍の占領する処となった。

写真: 前の頁の右は同城城壁下の激戦地に於て我戦死者を追悼しつつある光景。左は城外に布かれた砲兵陣地より敵城目がけて砲撃中の壮観。後の頁の右は全く我が手に歸したる済南停車場に於る皇軍の精鋭。左は済南より退却しつつある南軍兵站部輜重輸卒隊。

注)鏖殺(おうさつ):皆殺  /  茲に再び:ここに再び  /  方振武:蒋介石軍の軍人  /  督辨公署:当時の上級官庁  /  殷々たる:大地を揺るがすような大きな音が鳴り響く様  /  咫尺(しせき):わずかの距離  /  深更(しんこう):夜中、夜更け  /  歸したる:帰る。元いた場所に戻る  /  輜重輸卒隊:物資輸送部隊

上記の右左に続く長い記事から、当時の戦闘の様子や、なぜ軍隊を送り戦闘に至ったかの日本側の致し方ない事情が書かれています。この支那動乱だけではなく、中国での日本の軍事行動などが、日本が中国で利権を得るため、日本が軍隊を駐留させるための名目であった様に語られていますが、実際は蒋介石軍が、日本人側を「全滅の危機」を苦慮する程の状況に追い込んでいたといえます。これは意図的に日本軍に南北戦争に参戦させる目論見だったといえるでしょう。その結果、日本人への攻撃が激化したことが日本軍からの本格的な軍隊派遣の理由だったのです。

日本は支那動乱の末期に起きた、この済南事件までは、南北政府の軍事衝突に対しては基本的に「中立」であったと言えます。日本は満州や蒙古の天然資源の安全な輸入が出来れば、特に戦争を起こす理由はありませんでした。この状況は現在の各国との関係と同じです。そのため、当初は、済南城には邦人保護と治安目的で派遣軍が少数居留するのみでした。他の都市部でも同様だったといえます。済南城への蒋介石軍の入城に際しても、当初は、特に軍事衝突は無かったのです。その証拠に、日本からの派遣軍側は「警戒設備を撤去」して招き入れています。それが、入城後、蒋介石軍が態度を一変し、「日本人を皆殺しにせよ」と、一般市民に対し襲撃や虐殺やレイプなど残虐行為に出たことで、緊急事態となり、戦闘に突入してしまったのです。これが済南事件の真相です。

日本の過去の戦争についての認識は、イギリスなどヨーロッパ諸国による中国の植民地化という史実を無視して、すべてに日本が中国の侵略者という立場でしか解釈されていないため、多くの動乱や事件について動機や目的や犯人など、諸々の話に矛盾や不自然な点が多く、歴史の流れや理解に混乱が生じる原因になっていると思います。

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