北伐の真相3ー清浦子爵の天津訪問

北伐の真相3ー清浦子爵の天津訪問

1925年3月の孫文の死後、蒋介石は、孫文の側近であった人物を次々を失脚させ、時には暗殺し、翌年の1926年3月には、汪兆銘の失脚に成功します。こうして、蒋介石は、孫文の政治軍事基盤を一手に掌握するに至ります。蒋介石の政権基盤は、中国南部の大河である揚子江の南側の地域であり、南支(南支那)と呼ばれる地域でした。この時点では、南支(南支那)は蒋介石の完全な統治下とは言えず、先ずは、南部地域での実権の掌握を目指します。

1926年(昭和元年)の「歴史写真」では、この当時の中国の情勢についての記事は殆どありません。これは、当時は日本が中国の南北内乱紛争には軍事的には殆ど関与していなかったためといえます。当時を伝える記事としては、「歴史写真」では雑誌裏面に「月間の出来事」に相当する一文があるのみですが、蒋介石が「北伐宣言」をした1926年7月には、7月31日の出来事として、

「支那呉張連合軍対国民軍の戦機熟し南北の決戦迫るとの報あり」

とあります。

蒋介石は、1926年7月の「北伐宣言」の後、まずば南部の武漢の軍事攻略を行っています。当時の武漢は、北京政府下の直隷派の呉 佩孚(ご はいふ)が配置されていた場所です。歴史の一般理解としては、当時の中国では、北京政府内でも、派閥同士での軍事対立が続いていたされているようですが、1926年頃には、既に張作霖を中心とする協調体制になっていたのでは無いでしょうか?むしろ、「北京政変」までは、清の朝廷が継続し、その後も日本政府の保護下で、清の朝廷は実質的に継続していたともいえます。そのため、軍閥同士での軍事対立はあったにしろ、あくまで清の国内での政権争いレベルであり、「戦争」というよりは「衝突」に近かったのではないでしょうか。少なくとも、1926年7月の時点で、直隷派の呉 佩孚(ご はいふ)と奉天派の張作霖は連合軍を組んでいたのは事実です。

日本は、北部の北京政府とは協調体制を取っており、歴史としては軍閥同士の戦争が重なったような印象ですが、実際には、派閥争いはあったとしても、敵対する程の関係では無かったのではないでしょうか。北京政府の方は、日本と利害を共にし、常にヨーロッパ諸国、特にイギリスの植民地化危機に瀕していましたので、共通利害の下での政権争いというのが実際だったかも知れません。

昭和元年12月(1926年12月)発行「歴史写真」から
昭和元年9月(1926年9月)清浦子爵支那名士を歴訪す

清浦子爵の天津訪問

日本は、蒋介石の北伐宣言と武漢への軍事侵攻を受け、1926年9月(昭和元年9月)下旬には、第23代 内閣総理大臣を務めた清浦 奎吾(きようら けいご)子爵が、天津を訪問し、北京政府の前大総統の段 祺瑞(だん きずい)と、同じく第4代大総統の徐 世昌(じょ せいしょう)、両氏と夫々会談を行っています。段 祺瑞(だん きずい)は安徽派(あんきは)、徐 世昌(じょ せいしょう)は直隷派の要人です。当時、既に奉天派の張作霖とは支援関係にありましたので、北京政府内での軍閥対立については、当時の実際の状況は、現在の歴史認識とは少し意味合いが異なったように思えます。

この天津訪問の際、両者と行った会談内容は記載されていませんが、現在で言えば、清国(北京政府)と日本の元首脳クラスの要人による直接対談ですので、相当に重大な内容であったといえるでしょう。時期からして、蒋介石の「北伐」への対応についての話合いといえるでしょう。

また、北京政府では翌月10月10日に、張作霖率いる奉天軍の大軍事パレードが行われいます。これは、北伐を宣言した南部の蒋介石に対する「威嚇」の意味があったと言えるでしょう。このページの右上の写真には、奉天軍を率いていた張作霖の長男である張学良を中心として、当時の北京政府の要人が写っています。

北京南苑における大閲兵式

左上の記事:秦天軍が音に名高い張 作霖將軍の御曹子張學良氏を中心として十月十日の國慶日に北京南苑大閲兵式を舉行しつつある光景で、當日は代理總理兼外交總長「顧維鈞」氏を始め各閣員外交團  其他多數參觀し近來稀有の盛觀を呈した。寫眞 右上中央「顧維鈞」氏 其右「張 學良」 氏顧氏の左海 軍總長「杜錫珪」氏其次軍團長 「韓麟春 」氏又左より二番目「顧總理夫人」で其他政府の要人連である。

注)韓麟春:中国上海の出身だが袁世凱の秘書を経て北京政府で外交部門を担当していた。

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