北伐の真相4ー蒋介石軍の南支攻略

北伐の真相4ー蒋介石軍の南支攻略

1926年7月(昭和元年(大正15年))の蒋介石による「北伐宣言」から始まった「支那動乱」=「中国南北戦争」は、最終的には、1928年6月、蒋介石率いる南政府軍(南軍)の勝利で終わります。蒋介石の政権基盤は、中国南部の大河である揚子江の南側の地域でした。ここを当時、南支(南支那)と呼んでいました。1926年3月に、汪兆銘の失脚に成功します。この時点では、南支(南支那)は蒋介石の完全な統治下とは言えず、先ずは、南部地域での実権の掌握を目指します。

蒋介石軍(南軍)の武漢占領

当時、中国南部地域に北京政府の軍事的な影響力がどの程度あったかは不明ですが、南支(南支那)では、蒋介石軍と北京政府軍との間で戦闘が続き、1926年10月に至り、最終的に、蒋介石軍(南軍)に武漢は占領されます。当時、武漢は、北京政府下の直隷派の呉 佩孚(ご はいふ)が配置されていました。1926年7月の「北伐宣言」以降の3か月に渡り、激戦が繰り広げらえたようです。また、当時は、上海は、同じく北京政府下の直隷派の孫 伝芳(そん でんほう)が配置されていました。南部地域では、各地で、「国民政府」が様々な指導者によって樹立されてはいましたが、実質的には、北部の北京政府の統治下にあったといえます。直隷派が軍隊を置いていたということは、武漢、上海、南京の治安維持は北京政府が行っていたともいえます。そう考えれば、蒋介石が「北伐宣言」した直後、まずは、南部地域での北京政府の影響力を排除しようとしたのは当然の動きと言えます。

中国の湖南省の位置ー揚子江の南側で武漢のある省

蒋介石軍(南軍)の上海占領

その後、蒋介石は、翌年1927年3月21日、直隷派の孫 伝芳(そん でんほう)が統治していた上海と、その隣の南京を軍事占領することに成功します。直隷派の孫 伝芳(そん でんほう)は上海が本拠地でしたが、武漢方面から、揚子江に沿って、東方へ進軍すれば、南京→上海と進むことになります。逆も然りです。この時、上海では、蒋介石政府軍と北京政府軍で激戦が繰り広げられました。蒋介石政府軍が勝利し、3月には上海までが、蒋介石の統治下に入ったといえます。しかしながら、こうした経緯から、蒋介石は前年1926年7月に「北伐宣言」は発したものの、北部へ直ぐには軍事進攻が出来る状況では無く、そのまま暫くは南部地域の都市の軍事占領を行い、南部地域の分離独立を図ったと言えます。

中国の江蘇省の位置ー揚子江の河口にある上海のある省
上海は江蘇省の東端に位置します。

 

以下の記事は、当時、歴史写真に掲載されたものです。

昭和2年5月(1927年5月)発行「歴史写真」から
昭和2年3月(1927年3月)支那南北の大動乱

記事:支那南方に勢力を張る國民革命軍は三月二十一日松江方面より長躯して上海に殺到し、同地に駐屯しつつある山東軍と猛烈なる市街戰を行ひ遂に完全に是を占領し、全市至るところ青天白日旗を以て飾らることとなった。かくて革命軍は更に南京をも占領したが、同地に於いては一部凶暴なる支那兵我が領事館に乱入して掠奪蹂躙を敢てする等のことがあり、

一方又北京に於いては豫て支那の赤化運動に隱然一大勢力を有するものとして北方政府より睨まれつつありたるロシア大使館内の共産党本部に対して四月六日安國軍総司令張作霖将軍は突如大手入れを試み多数の党員を検束し、露支両國間の國交を危殆に瀕せしむる等の事件勃発し、支那國内は南北を通じて騒擾いつ果つべしとも豫測し難い状態となった。

豫て(かねて):予め(あらかじめ)/ 危殆(きだい):非常に危ないこと / 騒擾(そうじょう):騒ぎ乱れ煩わしいこと

國民革命軍:南部の蒋介石政府軍
安國軍:北部の北京政府軍(張作霖が軍司令官)
山東軍 :山東省に配備されていた北京政府軍の部隊(張栄昌が指揮)

以下の中国地図の赤い地域が山東省と呼ばれる場所です。上海、武漢は、山東省のすぐ南側に位置します。当時、蒋介石軍が「革命軍」と呼ばれていることからも、辛亥革命後、独立宣言をした南部は、その後は、北部の北京政府の統治下(清の王朝の統治下)であったことが推察出来ます。だからこそ、漢民族の独立のため、北部に軍事侵攻する必要があったといえます。

この時、蒋介石軍と北京政府軍との間で、武漢、上海、南京にて、軍事衝突(戦争)が勃発し、激戦の結果、蒋介石軍が勝利しました。上海と南京の間は、約350kmで、東京と名古屋の間の距離の位置関係にあります。武漢と上海を軍事占領出来れば、中間地点の南京の攻略も容易であったでしょう。当然、蒋介石へ軍事支援していたのはイギリスとフランスであり、中国の植民地化を図るヨーロッパ諸国の後ろ盾無くして、蒋介石の軍事行動は成立しません。

 

青天白日旗は、蒋介石軍(革命軍)の政府旗です。右下の写真の上には、「革命軍に焼かれたる上海市街」とキャプションがあります。蒋介石軍の軍事侵攻の特徴(都市破壊)が、この頃より見られます。日本は、上海、南京、双方とも、領事館の襲撃を受けており、多数の犠牲者が出たことは想像に易いのではないでしょうか。この時、南京の領事館襲撃は1927年3月24日でした。

蒋介石軍(南軍)の南京日本領事館襲撃事件

1927年3月24日、蒋介石軍が南京を占領した際に、南京の日本領事館を襲撃し、暴行や掠奪の限りを尽くした事件。当時、領事夫人及び領事館へ避難していた日本人30数名に婦女暴行を行い、その他多数の日本人を虐殺した事件。

蒋介石の目論見としては、こうした虐殺事件を起こし、これを契機に日本側からの反撃に便乗し、日本軍からの軍事攻撃により戦争を起こさせようと仕向けていたといえます。日本軍は、軍事力や兵力で蒋介石軍には適わないため、一度、軍事衝突に陥った場合は完敗は必須でした。上海、南京、漢口など、中国の南部地域では、蒋介石軍が北部の北京政府軍に対して非常に優勢となっており、軍事的協力は見込めません。日本が一発でも発砲すれば、蒋介石軍に日本人居留民を全滅に追い込む理由を与えることになります。そのため、こうした残忍な襲撃事件が起きても、日本軍は何も出来ずに、「無抵抗」を貫くしか無かったようです。

蒋介石軍(南軍)の漢口日本租界襲撃事件

1927年4月3日、蒋介石軍が漢口を占領した際に、蒋介石軍が漢口の日本租界に侵入し、掠奪、破壊を行い、日本領事館員や居留民に暴行危害を事件。日本人に対する敵意を向き出しにし、日本租界だけでなく、他国の租界地の日本人商店も含め、軒並み襲撃された。上海、南京よりも、中国の内陸部にあり、揚子江の上流で支流の漢水(漢江)が合流する地点にあり、漢陽・漢口・武昌の武漢の周辺の三大地域(都市)一つです。

前年1926年10月に、武漢が占領された後は、蒋介石政府が南京に政府を樹立するまで、武漢は政府拠点ともいえる場所だったといえます。そのため、漢口の日本租界や日本領事館への襲撃は、南京と同様に、極めて過激で暴力的であったといえます。こうした暴行危害事件の背景には、漢口から日本人を撤退させる目的があったといえるでしょう。この漢口日本租界襲撃事件までにも、何度も日本人を狙った襲撃が繰り返されていたが、1927年4月の襲撃では、妊婦を襲撃するなど残虐を極めており、結果、二千数百人いた日本人居留民は5月には500名を切る程の急な引揚げに至りました。

昭和2年6月(1927年6月)発行「歴史写真」から
昭和2年4月(1927年4月)支那南北大動乱続報

漢口避難民満載のジャンク長江(揚子江)を下る(左上の写真の拡大)

 

汪兆銘と武漢政府

1925年3月の孫文の死後、孫文の片腕とまで言われた廖 仲愷は8月に暗殺。孫文の代理として、大元帥代理を務めた胡漢民は失脚、9月には国外追放。1925年11月、北京の西山(碧雲寺)で西山会議に臨んだ孫文の側近達については、反政府密談をしたとして、1926年1月、中国国民党第二回全国代表大会で、蒋介石に依り、全員弾圧、又は、永久党籍剥奪などに処されます。その後、1926年3月の中山艦事件で、孫文の最も有力な後継者であった汪兆銘を政治失脚させ、国外追放しています。1926年7月に蒋介石は「北伐宣言」をし、1926年10月には武漢を軍事占領します。翌年の1927年3月には上海、南京の軍事占領を完了しています。

現在の一般的な歴史では、1927年3月に、蒋介石が汪兆銘にフランスからの帰国を要請し、汪兆銘が帰国したことになっている説があります。また、汪兆銘は1926年12月に、武漢に自らの政府として武漢政府を樹立したという説もあります。当時は、北支那、南支那、双方とも、共産党勢力を抑止する方針でいました。汪兆銘が共産党を容認する立場であったかは不明ですが、当時の蒋介石の動向を考えて、この時点で、汪兆銘と協力体制を築こうとしたかは疑問が残ります。

蒋介石軍は1926年10月には武漢を軍事占拠し、もし政府を樹立したのであれば、この段階で武漢に臨時政府を樹立し、その翌年、南京を軍事占拠し、こちらにも臨時政府を樹立したと考えるほうが自然でしょう。当時は日本は、蒋介石が主導する南部政府とは対立を避けるためもあったためか、「歴史写真」では南支那については記事が殆ど掲載されていません。蒋介石が臨時政府を樹立したことについても特に記事はないようです。一方、1927年10月号の「歴史写真」の世界日誌(その月の出来事)として、「9月5日、武漢南京両軍益々優勢揚州を占領す」という記載があります。ここから、当時は、蒋介石軍が中国南部地域を、北部の北京政府統治下から軍事奪回していく際に、武漢、南京の軍隊を集結していたことが伺えます。当時は、蒋介石は、元は北部の北京政府の直隷派であった馮玉祥(ふう ぎょくしょう)、山西派であった閻錫山(えん しゃくざん)と軍事協調していました。孫文の生前は共産党を容認する方針で、1924年から第1次国共合作も実現しており、これは1927年8月に分離しています。その後は、蒋介石派、共産党に対しては「弾圧」に近い対応でした。イギリスの支援を受けていたのであれば、共産主義のロシア(ソビエト)には「敵対」していた当然です。こうした情勢の中、蒋介石軍(南軍)の上海、南京はじめ、南支那全域を軍事占領し、北部の北京政府軍と戦闘状態を繰り広げ、北部に向かって軍事侵攻を本格化しようとしていました。「北伐」の名目は、「孫文の意志」という事にしています。このタイミングで、孫文の後継者として最有力候補だった汪兆銘を、蒋介石が自らの政府へ関与させるとは考え難いといえます。

尚、汪兆銘については、1931年7月(昭和6年7月)発行の「歴史写真」の世界日誌(その月の出来事)として、

「5月18日、支那廣東における列国領事団に於いては、今回成立を告げたる汪兆銘らの廣東新政府を事実上の政府として承認し、交渉の相手方となる意向なる旨を発表したり。」

とあります。このような記事が掲載されるという事は、蒋介石政府(国民政府)は、列国の領事団には承認はされていなかったということでしょうか。ここに掲載した様に、国民政府は、中国の中央政府としては余りにも横暴共謀であり、日本ほどでは無いにしろ、外国人は蒋介石政府軍の略奪の対象になっていたかも知れません。汪兆銘がいつのタイミングでフランスから戻り、この廣東新政府まで何をやっていたかは、「歴史写真」では全く記載が無く不明ですが、蒋介石の非道横暴な遣り方に耐え兼ね、対立勢力として汪兆銘に新政府樹立を支援したとしても不思議は無いでしょう。

1927年4月 蒋介石の国民政府樹立

1927年3月、武漢に次いで、上海、南京の軍事攻略を達成した後、翌月の1927年4月に、蒋介石は、南京に自らの政府として「国民政府」を樹立したようです。どのタイミングで南京政府を樹立したかは不明ですが、北部の軍事侵攻の前には、南京に臨時政府を樹立したのは間違いないでしょう。

この時、政府所在地として、上海では無く、南京を選んだ理由は、南京という都市が、1912年の辛亥革命の際、孫文が樹立した中華民国の政府を最初に置いた場所だからです。蒋介石は、「北伐」の理由を孫文の意志であると主張し、自分が孫文の正当な後継者であるからこそ、「北伐」を行うとしていました。自分の政権の安定と正当化については、「孫文の後継者である事」が名目として必要だったのかも知れません。蒋介石は、孫文の死後、側近や後継者候補を、暗殺や失脚させて、中央に躍り出た経緯があります。南部政府内でも、蒋介石には反発する勢力は多かったといえます。そのため、孫文にあやかる必要があったのでしょう。1927年12月には、孫文の支援者であった宋嘉澍の三女(宗家3姉妹の一人)であった宋美齢と結婚しています。宋美齢は孫文の妻の宋慶齢の実の妹ですので、この結婚で、孫文とは義理の兄弟になったといえます。この関係をある意味後ろ盾にし、1928年(昭和3年)からは、揚子江を超え、中国の中支(中支那)の都市を軍事攻略しながら、黄河北部領域へ軍事侵攻を拡大して行きました。

これ以降、蒋介石軍(国民党軍)は、揚子江を超えて、中支(支那中央部)へ軍事侵攻を開始して行きます。中支とは、北は黄河、南は揚子江に挟まれた地域です。1928年からは、蒋介石の「北伐」で中支那での南北間の紛争が激化していきます。

 

1926年7月 上海日本総領事館爆弾事件

1926年7月(昭和元年(大正15年))の蒋介石による「北伐宣言」から、武漢の軍事攻略が始まりますが、蒋介石は次のターゲットとして、北京政府の直隷派が統治していた上海の攻略を視野に入れていたようです。1926年11月発行の「歴史写真」によれば、1926年9月15日に、上海の日本総領事館で爆弾事件が起きています。日本は、翌年1927年3月

昭和元年11月(1926年11月)発行「歴史写真」から
昭和元年9月(1926年9月)上海日本総領事館爆弾事件

記事: 九月十五日午前十一時半頃.支那上海なる日本總領事館通用門に一人の支那人スートケースを携へ人力車に乗りて来り今や門内に入らんとする時、スートケースの中に在りたる爆彈轟然爆發し人力車夫は脚部に重傷を負うて其場に昏倒し、該支那人は逸早く現場を逃走せんと企てたが、折柄附近警戒中の工部局日本人巡査に逮捕せられた。爆彈ば直径六寸、長さ一尺位いの 圓筒で內部に小銃彈が充填し是を新聞紙に包み木箱に入れ更にスートケースに納めたもので、該支那人は一日本人(勿論鮮人であろう)より依賴され領事館に持参しつつあったもので爆彈は定の時間が来れば自発的に爆發する仕掛になっていた。

1926年9月15日に、日本總領事館通用門の付近で、中国人が時限爆弾の入ったスーツケースを持ち込み爆破させた事件です。上海で日本総領事館が狙われたのも、当時の上海は、南部地域であり、辛亥革命で独立宣言をし、中華民国を樹立した経緯はあっても、その後は、引き続き、北京政府の統治下であったこと、また、北京政府と日本は協調体制にあったことから、日本に対する「脅し」目的で、蒋介石側の人間が起こした事件であった可能性が高いでしょう。

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