張作霖爆殺事件の真相1ー張作霖氏の遭難

張作霖爆殺事件の真相1ー張作霖氏の遭難

張作霖爆殺事件は、一般的な歴史理解では、張作霖は、蒋介石率いる国民党軍(南軍)との戦いで敗退し、北京を脱出したとされています。また、その脱出に際し、南満洲の軍事侵攻を目論む日本軍により暗殺された話になっています。

確かに、この時は北部の北京政府軍(北軍)に比べ、南部の蒋介石政府軍(南軍=国民党軍)の勢力の方が圧倒していたため、張作霖が北京での戦いを前に逃亡したという見解になったのかも知れません。しかし、これは事実ではありません。当時、北部の北京政府軍は、南部の蒋介石軍に比べ、非常に統率の行き届いた強固な軍隊であったといえます。「北伐の真相3ー清浦子爵の天津訪問」に掲載した「北京での大閲兵式」の北部政府軍の写真と、「北伐の真相5ー済南事件」に掲載した「済南を退却泰安に引揚中の南軍」での蒋介石府軍の写真を見比べれば、どちらが軍隊として統制が取れ、戦闘能力が高かったかは明白です。軍事兵器面では日本からの軍事兵器技術の支援は得ていたはずです。

張作霖が「撤退」を決めた理由も含め、北部の北京政府としては、南北での大量な戦死者を出すような戦闘は避けたい意向があったと考えます。南部の蒋介石政府軍との戦闘については、激戦を避け、どちらかと言えば、自ら「撤退」するようにしていたとも言えます。これは、済南市街戦で、日本軍が蒋介石軍に勝利していることから見ても、蒋介石軍は兵数では圧倒していても、戦闘能力としては「訓練」された状態では無かったとも言えます。北京でも市街戦に持ち込めば、相当な激戦は予想されたといえますが、あっさり「撤退」するほどの兵力差があったとは思えません。

 

昭和3年7月(1928年7月)発行「歴史写真」から
昭和3年6月(1928年6月)張作霖氏の遭難

記事: 蒋介石、馮玉璋、閻錫山氏等に統率せらるる北伐軍の勢いは益々猛烈にして、奉軍の形勢日に非なるののあるに鑑み、五月三十日奉軍の最高幹部連は北京の地を戦禍の巷と化するに忍びずとなし、先づ大元帥張作霖氏の帰奉を直諫するところあり、張氏も遂に諸将の熱誠に動かされて奉天に帰ることを諾し、六月一日北京の外交団を招きて離別の挨拶を交し、同月三日午前一時十五分同地の表玄関正陽門停車場より特別列車に乗込み正々堂々として退京した。

此の特別列車は十八両を以て編成せられ、張氏は青磁色の上将服を纏ひ第八十号装甲貴賓車に納まり、陰暦十五夜の月に照らされつつ思い出深き北京を出発した。かくて同列車が天津、山海関を通過し満州の平野を直走って翌四日午前五時半奉天に到着せんとし、満鉄奉天駅と京奉線とが上下に交差せる一点に差掛りたる際、何者かの装置した爆弾突如炸裂してその特別列車中の五両は無残にも破壊され次で焼失するに至った。此の不意の災禍により折柄貴賓車内に於て呉俊陞氏、潘複総理其の他と談話中の張作霖氏は顔面、頭部等に重傷を負ひ、現場より直ちに奉天城内の私邸に入ったが、呉俊陞氏は遂に死亡し、其他即死者多数に及び、張作霖氏も其後の経過良好ならず、容態其他一切極秘に附されつつあるも或いは既に死去せるものにあらずやとも想像せられ、此稿〆切の十三日までには其消息全く不明であった。

直諫(ちょっかん):下位の者が地位の高い者に遠慮なく率直にいさめること。
正陽門:天安門広場の南に位置する北京の城門。
潘複:北京政府最後の国務院総理。

張作霖氏の遭難 左ページ

張作霖氏の遭難-5月24日大元帥府に於て撮影したる張作霖氏

張作霖氏の遭難-爆弾に破壊された貴賓車 (右ページ 左上 拡大)

張作霖氏の遭難-満鉄ガードの被害状況 (左ページ 左上 拡大)

張作霖氏の遭難-列車爆破の惨憺たる現場 (左ページ 右下 拡大)

張作霖氏の遭難-現場に於ける我救護班 (左ページ 右下 拡大)

張作霖の生死発表

張作霖爆殺事件は、6月4日奉天駅付近で搭乗車両爆破の後、張作霖の生死については、少なくとも13日までは公式発表が無かったようです。同じ車両にいた呉俊陞は後日死亡が確認されています。潘複は負傷で済んでおり、張作霖は即死では無かったとしても、後日死亡か、頭部損傷で危篤状態が続いたかでしょう。

真相は不明ですが、張作霖の列車出発直後から、北京では、蒋介石率いる南部政府軍(南軍)が続々と北京へ入城しており、張作霖が奉天に向かった翌日には「暗殺」状態です。南北政府での政権交代という「微妙な時期」であったため、張作霖の生死についての公式発表は伏せられたのでしょう。この犯人が蒋介石であれば、中国の政府統一が再び見送られ、更に大規模な内乱に発展していく局面だったと言えます。蒋介石政府軍は、中国で優勢な立場に踊り出で、張作霖爆殺事件の真犯人が日本であるかのように「冤罪」を着せたようです。

しかし、当時、張作霖を救護に当たったのは、南満州鉄道を管理統治する日本軍の救護班でしたし、そもそも張作霖と日本は協力体制にありましたので、日本が張作霖を暗殺する理由もメリットもありません。張作霖は北軍の大元帥であり、北京政府の中心人物でもありました。北京を明け渡し満州へ撤退はしましたが、この天への帰還は一時退却という見方も出来ます。大勢を整えれば、再度、蒋介石を脅かすことになるでしょう。

蒋介石側は、強力な軍力経済力を持つイギリスとは深い関係がありました。袁世凱率いた北部から、南部の独立を果たすために、蒋介石がイギリスに支援を求めたのは状況的に明白といえます。外国に支援を求めるとは、実質的に言えば、国家として資金借款するという意味になります。その軍事資金提供により眼前の戦争には勝利出来たとしても、戦後には多額の借款が残ります。植民地化政策では、これを理由に新政府側に極めて不平等な貿易条件が強要するのです。

戦争で国土が荒れれば経済的にも弱体化しますので、ここまでくれば植民地化は一気に進みます。新国家として多額の支援を受けた蒋介石の陥った状況は、日本の坂本龍馬以上に、イギリスの配下として動くしか無かったかも知れません。中国の満州地域から産出される天然資源は、蒋介石以上に、イギリスが狙っていたと言えますので、確実に北部政府の勢力を削ぐためには、総大将であった張作霖を暗殺するのが早道です。この事件は、そうした背景から生じたものといえます。

日本の「冤罪」はここから始まって居るといえます。そして、蒋介石には、その後、延々と、日本も中国もアジアも大いに振り回されることになったのです

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