張作霖爆殺事件の真相2-暗殺の目的

張作霖爆殺事件の真相2-暗殺の目的

張作霖は、当時の北京政府では、大総統の地位にあった人物でした。日本の歴史理解では、北部政府全体の統率者というよりは、北京政府の奉天派の一人であった印象が強いと思います。ですが、南部に樹立したばかりの蒋介石政府に比べれば、中国全体での地位も影響力も比べ物にならないほどの差があったといえます。南部の蒋介石政府の「北伐」の目的は、名目上は、中国統一政府の実現です。これには、北部の北京政府も否定的ではありませんでした。中国での内乱紛争が長引く事は、中国の植民地化へ至る道筋だからです。北京政府としても、「北伐」という「南北戦争」を平和裏に終結させるには、北京政府の総統であった張作霖が、出身地域である満州に撤退し、蒋介石に政権を委ねることが、激戦を避ける道であったといえます。

一方、そこまでの影響力のある人物だからこそ、蒋介石からすれば、張作霖を完全に排除しておきたかったと言えます。蒋介石が満州全域も支配下に置く意図があったとすれば、張作霖が生きて満州へ戻れば、やがては東北地域の勢力が再興し、張作霖が必ず中心人物となって反撃に転じるでしょう。蒋介石からすれば、確実に抹殺しておく必要があったといえます。

列車爆破であれば、側近や主要幹部も含めて一度に暗殺出来ます。装甲貴賓列車含め計5両が爆破炎上する程の爆破規模からしても、張作霖をいかに確実に葬り去りたかったか、その強い意図が感じられます。張作霖はじめ北京政府とは、経済協力体制にあった日本に、ここまで執拗に張作霖を惨殺する理由がありません。張作霖の列車爆殺が実現した理由として、張作霖も日本政府も、蒋介石とはどういう人物なのか把握し切れていなかったことが挙げらえるでしょう。「孫文の後継者」であれば、当然、ある程度は「穏健派」であると考えていたかも知れません。そのため、平和的な解決を模索し自ら撤退した敵軍の長を、直後に爆殺するという発想が無く、本来であれば、日本軍か奉天軍が護衛し、軍隊と共に陸路で引揚げるべきだったところ、防備の手薄に成りがちな列車移動を選択してしまったといえます。

これは、ある意味、大事な局面での大きな判断ミスとしか言い様がありません。普通に考えれば、通過ルートが固定した列車での移動は危険です。常に暗殺を考え万全を期して内密理に移動すべきところ、帰路のルートに加え、搭乗列車の車両まで公表した上で、出発したようです。本来なら、国家の要人の移動としては有得ないでしょう。もしかすると、この時点までは、蒋介石側が、非常に平和的な中国統一の交渉を持ち掛けていたかも知れません。当時、満州鉄道は日本が管理運営に携わっていました。列車の爆破地点が「奉天」という「満州地域内」で、尚且つ、「満州鉄道上」で起きた点についても、この事件の犯人として、日本軍が疑われるように仕向けるためだったといえます。

張作霖暗殺は、北京政府や満州の指導者側の中心人物を消すという目的に加え、満州族と日本との関係に何等かの亀裂を生み出す目的があったとも考えられます。北京に近ければ、敵軍であった蒋介石が疑われます。日本軍に疑いの目を向けるには、奉天でなくてはなりません。実際、日本軍は疑われる事にはなったようです。ただ、「歴史写真」では、暗殺のあった1928年の年末までは少なくとも、この件のその後が報道されることは無かったようで、日本軍が疑われたかも「歴史写真」上では少なくとも不明です。

どちらにしろ、この事件は、そもそも当時の日本と満州の関係、張作霖と蒋介石の関係を考えれば、日本に張作霖を暗殺する意味も理由もメリットもなく、メリットがあるとすれば蒋介石以外に有得ないでしょう。

そのため、当時も、明らかに「蒋介石による暗殺」と結論したと思いますが、この時期は、敵対する南北政府が融和路線に急転したこともあり、勢力的に優勢であった蒋介石側に対し、張作霖の列車爆破について徹底追及する事は出来ず、内乱紛争の再勃発を恐れて、関係者は口を閉じざるを得なかったかも知れません。そのため、後に、色々な解釈の余地を残すことになったといえます。

列車の爆破規模から見ても、相当な量の火薬が必要であったといえます。これを調達する資金を何処から得たのかを考えても、日本の関東軍の河本大佐の個人では不可能でしょう。爆破地点の選定についても、この件が当初よりかなり計画的であった事を示唆します。

張作霖の爆殺事件の直前まで北京での戦闘が予想されていました。「歴史写真」からの記事では、北京の無血開城と張作霖の奉天帰還は、短期間かつ急展開で決定されている事が伺えます。奉天への帰還も急に決定され、日本軍が事前に爆弾等を準備する余裕があったとは思えません。一方、蒋介石軍であれば、北京の軍事制圧後、満州へ敗退するであろう張作霖の撤退路を塞ぐために、予め要所に準備をしていたとしても不思議はありません。その上で、平和的な「中国統一」を主張し、張作霖を自ら引かせ、列車で帰還するように仕向けたともいえます。

昭和3年7月(1928年7月)発行「歴史写真」から
昭和3年6月(1928年6月)北京を明け渡した張学良、楊宇霆、両将軍

記事:大々安全地帯に避難する等、人心恟々として不安の氣益々濃厚となって来た。 而も北伐中の中 堅、間錫山氏の率いる山西軍の猛襲に遭い、奉天軍が金城鐵壁と恃みあたる京漢線保定の防禦も五月末日に及んで遂に破れ混亂せる奉軍は 先を爭いて退却し、全く戰意を失いたる敗残の兵士は続々北京に雪崩れ込み、北伐軍の京津殺到は今や寸刻の後に迫るの感ありたるも、六月十日奉天軍の北京明渡しと共に翌十一日閻錫山の一軍先づ平穏裡に北京に入城し、天津の張宗昌氏も同地を残虐の巷に化せしむるを欲せず無念の歯噛をし乍ら圓滿撤退を聲明したる爲め、京津方面に始めて生色あり、さしもの南北大動乱も是にて略々一段落を告ぐることとなった。

写真右上:北京に逃げかえった奉天兵士の晝寝(昼寝)
写真左下:北京の要所に於ける我軍の防備作業(日本軍の防備作業)
写真左上:北京を明け渡した張学良(右)、楊宇霆(左)、両将軍

張学良(右)は、列車爆殺事件で暗殺された張作霖の長男、楊宇霆(左)は奉天出身であり、張作霖の側近とも言える人物だったといえます。張作霖の下、安國軍政府大元帥府参謀長を務めた人物。上の2人の写真は、張作霖の爆殺後に撮影されたものでしょう。張作霖が蒋介石によって暗殺されたのは、当時の状況からして明白です。張学良と楊宇霆の棒然とした表情を見れば、どのような「思い」だったか容易に想像出来るでしょう。張学良は、その後、蒋介石の国民政府の傘下に入りますが、父親の敵(かたき)に敢えて下るには、内心は、相当な怒りと復讐心があったのではないでしょうか。

張学良と楊宇霆は、同じ1928年12月に起きた「易幟」の際、これは北京政府が、蒋介石の南部政府に完全降伏したことを意味するものですが、政権争いに至ったとされています。現在の歴史では、張学良が楊宇霆を粛清(銃殺した)とされていますが、この二人は、奉天派の代表の後継者と、その父である張作霖と共に歩んできた将軍です。張作霖爆殺事件では、南部の蒋介石から、最大限の屈辱を味わされており、その楊宇霆が、張作霖の長男である張学良と権力争いに至るという話には、普通に考えても「違和感」を覚えます。

実際のところは、「易幟」の際、反対する勢力として、蒋介石政府側に粛清された、又は、暗殺されたのでは無いでしょうか。

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