第二次上海事変の真相5ー日本軍の上海上陸

第二次上海事変の真相5ー日本軍の上海上陸

8月13日の蒋介石政府軍による日本租界への不法発砲事件以降、上海市街に無差別空爆、日本海軍の艦隊への空襲など、蒋介石政府軍による「軍事攻撃」が続き、更には、上海方面に続々と大軍を集中させて行きました。上海には、多数の日本人居留民がおり、欧米の租界地も多数存在していました。事態の収拾のため、また、蒋介石政府軍のこれ以上の暴戻を止めるため、日本は、8月23日より、遂に陸軍部隊を中国本土へ上陸させ、蒋介石政府軍の残滅を目指し決起しました。

満州事変の半年後、第一次上海事変でも「1月に及ぶ軍事紛争」が起きましたが、第二次上海事変では、蒋介石政府軍の一方的な攻撃は目に余るものがあり、また、停戦調停に応じるどころ、戦闘姿勢を崩しませんでした。

第二次上海事変から、日本軍の上陸に至る経緯については、現在の歴史では殆ど正しく理解されていません。日本が、自国の利益のために中国を侵略する為、上海へ上陸したことになっています。これは、当然、大きな間違いです。この戦いは、蒋介石政府(中華民国)からの、中国全土の分離独立の支援であり、実際に、日本人居留民はじめ、一般市民にも多くの犠牲者が出るほどの深刻な事態に陥っていたからこそ、上海上陸という結果になったのです。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月)- 壮烈を極めたる我が陸軍部隊の敵前上陸(上海方面の六)

記事:

八月十三日戰端開始以来、敵は上海包囲の態勢を以て続々大軍を集中し來たるに依り、我方に於ては、斷然陸軍の精鋭を同地に派遣し、海陸空の三方面より暴戻支那軍(蒋介石政府軍)を徹底的に残滅せんと企て、陸軍部隊は海軍と緊密なる協同作戦の下に、八月二十三日拂暁を以て、難中至難の敵前上陸を敢行し、頑強なる敵の抵抗を排撃し、遂に〇〇方面に於て美事所期の目的を遂行した。

写真:

写真の
(右上) 敵前上陸掩護の海軍陸戰隊決死隊員。
(左上) 後續部隊の上陸を掩護する海軍の煙幕展開。
(右下) 〇〇に到着したる陸軍後續部隊。
(左下) 後續部隊續々〇〇に上陸する有様である。

 

上記は、上海上陸が、「暴戻支那軍(蒋介石政府軍)を徹底的に残滅」する目的であったことを示すものです。日本軍は、8月23日に、上海に上陸しています。現在の歴史認識では、日本軍が強引に攻め込んだように認識されていますが、実際には、陸地には蒋介石政府軍が待ち構える中の「決死の上陸」でした。もちろん、上陸出来た理由は、蒋介石政府軍の衣を着た、実質、旧北京政府軍が「上陸させてくれた」からです。

北部だけでなく、南部側でも「日本軍に占領させる戦略」が可能であった背景には、孫文が逝去した以降、10数年に渡り繰り返されていた、蒋介石政府の残虐行為に対する中国全土の一般民衆の「反発」がありました。蒋介石による虐殺や強奪などの被害には、日本も幾度となく苦しんでいましたが、これは、中国全土の一般民衆にとっても同様でした。

蒋介石政府は、イギリス、フランス、アメリカなどから、多年に渡り多額の軍事借款で資金提供を受けていました。その債務は、既に、国家として返済不能であるほどの巨額であったと言えるでしょう。中国共産党への軍事制圧も、前年の西安事件までは10年以上続いていました。結果、政府としては、完全に「財政破綻」状態だったといえます。

そのため、中国の各都市で、保安隊(警察隊)による、一般市民を狙った資産の強奪や略奪、更には、暴行や凌辱なども後を絶たなかったといえるでしょう。そうした強奪と略奪を繰返しても、尚、政府財源は不足していたからです。蒋介石の統治下は、後の台湾での独裁と同様、「恐怖政治」に近い状況だったといえます。

第二次上海事変が起きる頃には、日本以上に、中国の一般市民が、蒋介石に対して「嫌悪」や「憎悪」に近い思いを頂く様になっていたといえます。日本軍が、第二次上海事変で「圧勝だった」理由も、結局は、蒋介石という人物の「悪政」「暴政」の結果政府内での分裂、離反、更には一般民衆からも「拒否」される状況が生じていたからです。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月)-敵前上陸の我が陸軍部隊勇躍前進す(上海方面の七)

記事:

八月二十三日の拂暁、我陸軍は、海軍の猛烈にして而も精確なる掩護射擊の下に、敵の 死守する〇〇及び〇〇方面へ敵前上陸を敢行し、弾丸雨飛の中を物ともせず、萬死を期して勇躍敵陣に突入し、美事に是を掃蕩して世界戰史に比類なき偉勲を樹て、今や一舉に積極的行動に移らんとしつつあるのである。

写真:

寫眞の右上)我が上陸軍の金田部隊が〇〇〇に於て敵陣に突擊せんとするところ。
(左上) 名誉の負傷者を後送しつつある有様。
(右下) 戰いの小閑にニコニコと芋を喰ひつつある光景。
(左下) 我軍の占據したる吳淞砲臺(砲台)である。

 

上記の記事も、以下の写真も、上海上陸について度々放映される映像の「イメージ」とは大分異なるのではないでしょうか?

写真拡大ー芋を食べる日本兵

「萬死を期して勇躍 敵陣に突入し」という記事とは少し印象が掛け離れている気がします。敵前上陸ではありますが、これは、蒋介石政府軍の衣を着た、実質、旧北京政府軍により、実際には「味方が上陸させてくれた」ので、日本軍は殆どか全く被害なく、合間にゆっくり芋を食べる余裕があったようです。

この写真に写る日本人兵士は、自分達がなぜ「圧勝していた」のか、その本当の理由は知らなかったかもしれません。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA