北支事変の真相7ー撤退する蒋介石政府軍(支那軍)

北支事変の真相7ー撤退する蒋介石政府軍(支那軍)

日中戦争(日本-蒋介石戦争)に発展した「北支事変」では、有得ない程の兵力差にも関わらず、日本軍が圧勝し、蒋介石政府軍が撤退していた事が「歴史写真」で報じられています。

昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(其 十三)

記事&写真:

(上右)七月二十九日、南苑其他に於ける第二十九軍の兵営、根據地等悉く我軍の爲めに撃破され、支那軍は、算を亂して北中城の內外より逃走した。 寫真、支那兵潰走の跡朝陽門の有樣。
(上左) 支那軍の遺棄したる軍旗及び銃器を、北平軍警所內に取集めたるところ。
(下右) 通州に於ける保安隊暴虐の魔手より逃れ、辛うじて北平(北京)に辿りつきたる邦人の一部。
(下左) 我軍に依て鎖されたる北平城外南欠口門の北寧線鐵路である陸軍省許可済)

 

写真拡大 :支那軍の遺棄したる軍旗及び銃器

盧溝橋での不法発砲事件以降、北京周辺では蒋介石政府軍(支那軍)と日本軍の間で度々「軍事衝突」が勃発しました。上記の記事にある通り、蒋介石政府軍(支那軍)の第二十九軍は、悉く撃破され、兵士は逃走していました。それも、軍旗だけでなく、武器も置いたまま逃走していました。こうした武器は、当然、日本軍側の「武器」として再利用されました。日本軍には十分な武器がありますので、実際には、北京で自治独立を進める中国人の「武器」になって行ったといえます。

一方、蒋介石政府軍(支那軍)からすれば、こうした軍事衝突の度に、自分達の武器が日本軍に渡って行くのですから、堪ったものでは無かったでしょう。蒋介石政府軍(支那軍)は武器の殆どを海外からの輸入で賄っていました。「便衣隊」という私服の兵隊が多数居たのも、実際には、武器や軍服を十分に支給出来なかった「財務事情」があったと考えます。 張学良は、日本軍を経由して、武器を「北部側」に流すことで、蒋介石へは「経済的な損失」を同時に与えようとしたのでしょう。日中戦争では、蒋介石政府軍の「捕虜」も、同様に、一旦、日本軍側へ投降させ、その後は、日本軍側=北部側の兵士になるよう、どんどん逃走させていました。武器を遺棄して逃走させれば、戦闘無く、捕虜に出来ます。これを、中国の北部で展開していたのです。日本軍は常に圧勝。各都市で、記念写真を撮って、まるで「日本軍が最強の戦士集団」のように、こうした「歴史写真」などの雑誌で「演出」し、蒋介石を騙していました。

こうして、蒋介石政府軍(支那軍)より、武器と兵士を同時に、北部側へ提供していたのです。非常に賢い戦法だったと言えます。

 

昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(其 十三)-白旗を掲げた支那軍用列車

写真:

(右上) 北平(北京)を後に、白旗を掲げて保定方面に撤退する支那軍用列車。
(上左) 北平(北京)の内城に南面する三大門の正陽門。
(下右) 七月三十日、我軍は遂に意を決し、空陸呼應(呼応)して南苑に徹底的猛攻撃を加え、敵に莫大なる損害を與へた。寫眞は此の戰いに於て、我軍の齒奪したる敵の迫撃砲弾。
(下左) 七月二十八日、北平(北京)なる帝國大使館に避難したる在留邦人である。(陸軍省許可濟)

注)齒奪(鹵獲ーろかく):戦地などで敵対勢力の装備する武装(兵器)や補給物資を奪うこと。

 

写真拡大 :白旗を掲げて撤退する支那軍用列車

上記は、支那軍=蒋介石政府軍が、白旗を掲げて(=敗戦を認めて)、列車で撤退したことを伝える記事です。蒋介石政府軍の軍事規模からすれば、このような「全面降伏」での「撤退」は有得ないことです。しかし、それが実際であったのです。

 

写真拡大 :我軍の齒奪したる敵の迫撃砲弾

上記の写真では、支那軍(蒋介石政府軍)は撤退時に、これだけの迫撃砲弾をそのまま置いて逃げて行きました。日本軍の十数倍の規模の大軍隊ですので、日本軍の手に渡った武器の数も相当な数だったといえます。

 

写真拡大 :北京の正陽門

上記は、北平(北京)の正陽門です。中国の主要都市は、この写真にあるように「大きな城壁」に囲まれていました。手前と奥のアーチの通り、北平(北京)は三重の防衛壁があるようです。門の上部の3層の建物は、敵が侵入した場合、ここから矢を放つなど攻撃するためです。

この頁では、正陽門の隣に、撤退する列車が掲載されています。正陽門は、かつて、張学良の父親である張作霖が、「北伐」の際、大規模に拡大した南北戦争を平和に収束するため、故郷の満州、奉天へ、列車で旅立った場所でした。

蒋介石政府へ下った張学良へ、「我々は北京を奪回した」というメッセージだったのでしょうか。爆殺された父親と同じように、蒋介石軍を「列車で撤退させた」のですから。

これを見たとしたら、張学良は、どんな思いだったのでしょう。

 

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日本は、旧北京政府(満州派)を支援しました。しかし、それは蒋介石政府から中国全土が分離独立するための支援であり、中国を自国の利益のために侵略したのではありませんでした。しかし、蒋介石からすれば、アメリカからすれば、日本が「中国を侵略した」ことにしたかったでしょう。それが彼らの戦った理由だからです。アメリカも、また、蒋介石に陥れられた「被害者」だと私は思います。日本を攻撃するよう、騙されて、利用されたのですから。

戦後、現時点で77年経ちました。直ぐに100年を迎えるでしょう。

日本への誤解が一日も早く解け、日本の名誉が回復出来ることを願います。

中国に限らず、日本は他国の内乱や他国間の戦争には、二度と、決して、軍事支援をしてはいけないのです。このサイトの「真実の歴史」を通じて我々が学ぶべきことでしょう。そして、日本は、どんな事があっても、戦争はしないと覚悟を持って未来を描けるよう、世界の平和に中心になれるよう生れ変るべきと思います。