北支事変の真相6ー日本軍による圧勝

北支事変の真相6ー日本軍による圧勝

日中戦争(日本-蒋介石戦争)は、中国北部と中国南部が蒋介石政府から同時に分離独立を図った軍事クーデターでした。北部側を北支事変、南部側を第二次上海事変と呼んでいます。ここでは、当時の「歴史写真」の記事では、日本軍が圧勝していた事が報じられています。

昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(其 五)

記事&写真:

(上右)七月二十六日、郎坊弊附近に於ける日支兩軍の戰闘に支那軍は、我が空陸呼應の猛攻撃に、甚大なる損害ね蒙り敗退した。寫眞ば即りは の據りたる塹壕である。(上左)郎坊弊附近に於ける暴戻支那軍の不法射擊に對し、急遽〇〇より救援隊派遣せられ、今しもその一隊が同峠に到着 したる有樣。(下右)苦力を使用して輸送に從ふ我 が後方部隊。(下左)砲4 積込み出動せんとする我隊である。(陸軍省許可濟)

 

上記、支那軍(蒋介石政府軍)が敗退したとあります。蒋介石政府軍は日本軍の15倍近い兵力がありました。普通に考えて、戦闘があったら、日本軍は全滅していても不思議はありません。ですが、本当に「勝利」していたのです。

ここからも、支那軍(蒋介石政府軍)を率いていた馮治安、その上の馮玉祥が、更には張学良が、支那軍(蒋介石政府軍)と日本軍の「戦闘」を「演出」しながら、実際には、闘わずに撤退していたとしか考えられません。満州事変の時と同様に、「日本軍に占領させる戦略」が取られました。

 

昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(其の七)

記事&写真:

(上右) 七月二十九日、天津に於ける支那軍の挑戰に奮起した我軍は、空陸呼應して一舉に敵の本據壊滅した。寫眞に大洲市政E 北軍。(上左) 列車の屋根に伏して、前方、畑の中の敵を射撃しつつある我兵。(下右)七月11十九日、天津租界境界線の城門九州銀、市民し つつある我兵。(下左)00の戰闘に於て、支那兵と組打ち、青龍刀を分捕った我OO隊の要士浦部伍長と村上上等兵である。(陸軍省許可

 

右上の写真ですが、日本軍が圧勝した証拠写真です。負けていたら、こんな表情は有得ません。

右上ー写真拡大

「歴史写真」の記事では、毎回、「激戦」という話でしたが、上記の写真、兵士の服装を見ても綺麗な状態を保てていたようです。殆どの都市で、多少の小競り合いはあっても、支那軍(蒋介石政府軍)が自ら撤退していたという事です。

西安事件で、政治の表舞台からは失脚しましたが、張学良は依然として旧北京政府派または満州派の「影の総統」として影響力を誇っていたといえます。満州事変でも、ほぼ同じ戦略でした。一方、満州事変の際、張学良の東北軍が有得ないほど敗戦を繰返したことで、「東北軍は駄目だ」という意識が蒋介石に中に生じたのでは無いでしょうか?

「北支事変」でも、蒋介石は、張学良が裏切っていることには、気が付いていなかったかも知れません。もしかすると、死ぬまで気が付いていなかった可能性もあります。ですが、日本軍が勝利していたという事は、北部では、蒋介石は既に「影響力」を失っていたといえます。「北支事変」が勃発しても、自分の軍が負けてしまう以上、何も出来なかったでしょう。負ける度に、海外から調達した高価な武器が奪われていくのを見ているしか無かったでしょう。

そんな背景を考えながら、この写真を見ると、この時の日本軍は本当に「可笑しくて仕方なかった」のではと想像してしまいます。「戦闘=実戦」は当然ありましたが、実質的な任務は、あちこちの都市を巡って、万歳での記念撮影だったかも知れません。孫氏兵法を知り尽くした中国人と日本人であれば、この「フェイク戦略」は十分考えられます。

 

昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(其 九)

記事&写真:

(上右)天津に於ける暴戻支那軍の掃蕩後、我方に於ては、支那人中の窮民に白米を支給して大に彼等を娠はした。富量給米八受けてよろこび 那人の群れである。(上左)〇〇に於て、我が溝淵部隊の拿捕したる支那の砲艦『海燕』號が、〇〇埠頭に繋留せられたる有様。(下右) 大江造船所 た占領したる我軍の萬歲。(下左)七月三十日、〇〇に於て敵の陣営た砲撃しつつある我〇〇艦である。(陸軍省許可済)

右下ー写真拡大

上記の写真ですが、日本軍が圧勝した証拠写真です。負けていたら、こんな表情は有得ません。

 

また、日本人が中国人に残虐行為を行っていたという話ですが、実際には、「暴戻支那軍」とあるように、中国人の一般市民に強奪略奪などを繰返していたのは支那軍=蒋介石政府軍でした。

日本人は、中国の皆様に大変誤解されていると思いますが、中国文化は日本にとって最も身近な文化です。思想や宗教面でも大きな影響を受けて来ました。中国の方々には、「尊敬の念」というものが心の根底にあると思います。少なくとも、このサイトの制作者である私はそうです。

以下の様な写真を見て頂き、日本への誤解が解ける事を切に願います。

 

右上ー写真拡大(日本による、支那人の窮民への白米支給)

日中戦争(日本ー蒋介石戦争)では、日本だけが戦っていたのではなく、むしろ、戦っていた人々は旧北京政府下の中国人でした。戦略として、日本が表に立っていただけです。その水面下では、張学良以下、多数の元々旧北京政府の軍閥や要人などが、何年もの年月を掛けて、蒋介石政府を実質的に乗っ取っていたのです。当然、この戦いには、当然、中国人も多数、日本側で参戦していました。日本軍だけでは、到底、勝てる相手ではありません。それが真実であり、真相です。

 

アメリカもまた被害者

戦後、生き残った若い兵士達は、中国で自分達が戦っていたか理由は解らなかったでしょうし、知っていた年長の兵士達も、日本の正当性を主張すれば「天皇制の消滅」に成り兼ねない状況だったため、全員が口を閉ざしました。戦地から引き上げ後、多くの兵士が「自殺」しましたが、「自分達は間違ったことはしていない」と口にすることさえ許されず、自らの命を以て「無念」を訴える選択をしたのだと思います。

しかし、「南京大虐殺事件」と同様、「自害」すれば、結局、「口封じ」にしかなりません。そして、「南京大虐殺事件」と同様、日中戦争も、日本が「中国侵略した」という話になってしまったといえます。

日本は、旧北京政府(満州派)を支援しました。しかし、それは蒋介石政府から中国全土が分離独立するための支援であり、中国を自国の利益のために侵略したのではありませんでした。しかし、蒋介石からすれば、アメリカからすれば、日本が「中国を侵略した」ことにしたかったでしょう。それが彼らの戦った理由だからです。日本もですが、アメリカも、また、蒋介石に陥れられた「被害者」だと私は思います。日本を攻撃するよう、騙されて、利用されたのですから。

戦後、現時点で77年。直ぐに100年を迎えるでしょう。

日本への誤解が一日も早く解け、日本の名誉が回復出来ることを願います。中国に限らず、日本は他国の内乱や他国間の戦争には、二度と、決して、軍事支援をしてはいけないのです。このサイトの「真実の歴史」を通じて我々が学ぶべきことでしょう。

そして、日本は、どんな事があっても、戦争はしないと覚悟を持って未来を描けるよう、世界の平和に中心になれるよう生れ変るべきと思います。