第二次上海事変の真相4ー日本軍による反撃空爆

第二次上海事変の真相4ー日本軍による反撃空爆

8月13日の支那軍の日本租界への不法発砲事件の翌日、8月14日には、蒋介石政府軍(支那軍)の空軍が、上海市街に無差別空爆を行いました。この空爆も、日本がやった様な「誤解」があるようですが、日本軍はやっていません。

8月14日には、蒋介石政府軍は、上海市街地だけでなく、日本軍の艦隊へも空爆を行ったため、翌日の8月15日に、日本軍も台湾から空軍を出動させ防衛に当たりました。

記事:

八月十三日、上海に於て支那軍突如我軍に挑戦し來り、茲に日支兩軍遂に戰端を開くや、翌十四日、敵の空軍は小癪にも上海上空に飛來して、我が艦隊の旗艦其他を襲撃したるに依り、翌十五日、〇〇に於ける帝國海軍航空隊は、折柄の悪天候を冒し、支那海の怒擣上数千キロを突破して南京其他の飛行場を爆撃し、敵に大損害を與へた

写真:

寫眞の
(右上)は、當日基地に歸還せる我が〇〇機の翼に受けたる敵の弾痕。
(左上)〇〇出發前、壮烈なる隊長の訓示。
(右下)勇躍壮途に就く我機の見送り。
(左下)待機する我が航空部隊。(以上海軍省貸下)

注)怒擣(怒涛ーどとう):はげしく打ちよせる波 / 歸還(帰還ーきかん):基地などへ戻ること

 

日本軍の海軍航空隊が出動した理由

8月14日は、蒋介石政府軍の空軍により、上海市街地の一般市民への2度の無差別空爆がありましたが、同時に、日本軍の艦隊へも空爆を行いましたこれが、日本も海軍航空隊を出動させた理由です。

ただ、蒋介石政府軍では、「空軍」の方にも、実質「反蒋介石派=味方」がいますので、あくまでも「襲撃」であり、旗艦など、仮に破壊されても、大きな被害にならない「艦」を狙ったようです。それでも、艦隊への襲撃には変わりありませんこれが、日本軍が、空軍を出動させる「大義名分」となりました。 

日本軍は、上海方面(中国本土)に空軍基地はありませんので、翌日の8月15日、当時、日本領だった「台湾」から、数千キロの飛行を経て、「爆撃」に向いました。この時、「飛行場」を爆撃していますが、これも、飛行機を空中戦で墜落させ「破壊」するのではなく、飛行場を破壊することで、滑走路を使えなくするためでした。戦闘機が飛び立ち、空中戦に至る前に、飛べなくしてしまえば、人的被害も物的被害も抑えれらます。

 

蒋介石政府軍の軍事兵器の再利用

機体を出来る限り爆破しない戦略が取られてと考えます。第二次上海事変は。当初から、蒋介石政府の潰滅を目的としていました。そのため、蒋介石政府を潰滅した後は、蒋介石政府の保有していた軍事兵器を、そのまま、独立後の「新政府の中国軍」に流用することを考えたといえます。こうした軍事兵器の購入代金は、全て、蒋介石政府が対外軍事借款で賄っていました。蒋介石を暗殺せず、敢えて逃がし、国外追放すれば、蒋介石の政府は形式的に残ります。当然、巨額の対外軍事借款は、蒋介石の「借金」となり、独立後の中国には返済義務はありません。独立後の「新政府の中国軍」は、無料で、最新式の軍事兵器を保有出来る事になります。

張学良の軍師としての「偉大さ」は、蒋介石政府から中国全土を分離独立に、「表の対戦国」として外国である日本を利用しただけでなく、日本との戦闘の中で、航空機やタンクなどの軍事兵器、銃刀などの武器、更には、兵士までも、全て、後々、流用できるように、日本軍に敢えて奪取させていたことです。そのため、蒋介石政府軍(張学良配下=反蒋介石派)は、日本軍が来たら、自分達の武器や兵器をそのまま放置して、撤退や逃走を繰返していました。張学良は、蒋介石から全て奪った上で、「借金」漬けにして、「国外追放」に追い込もうとしたのでしょう。

張学良が、蒋介石への恨みを晴らすため、敢えて側近的な立場で、悟られない様に少しづつ「局面」を動かしていたとすれば、相当な「知能犯」であり「策士」でしょう。それだけ、父親を惨殺され、祖国を奪われた恨みは強かったのかも知れません。戦後は、台湾へも同行し、蒋介石が死去するまで側にいました。幽閉されていた訳ではなく、蒋介石が全て失って惨めに命尽きるのを見届けるまで、離れられなかったのかも知れません。

第二次上海事変も、もちろん、「実戦」ですので、犠牲者も多数、破壊された兵器も多数あったといえます。ですが、出来る限り、温存する戦術が取られましたようです。上記の8月15日の日本軍の海軍航空隊による上海などへの爆撃も、飛行機が離陸不可能な程度に「飛行場」を破壊することが目的でした。飛び立つ前に、飛べなくしてしまう戦法です。

日本軍は、台湾の航空基地や、以下の記事に有る水上でも滑空出来る機体を登用したようです。

 

昭和12年8月(1937年8月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 世界を驚嘆せしめたる我が海空軍の活躍(上海方面の三)

記事:

八月十五日、折柄の暴風雨を冒して遠く支那內地に侵入し、南京其他を爆擊、爾來始んど連日、中支南支の各地を襲撃して、勇猛果敢鬼神を泣かせしむる奮闘を重ねつつある帝國海空軍の働きこそ、今や正に全世界人驚歎の的となつてゐる。

写真:

寫眞の
(右上) 我が海軍航空隊に依り、爆破せられたる崑山鉄橋。(海軍省貸下)。
(左上) 〇〇に於て活躍、今しも敵陣地爆擊に向はんとする我が海軍機。
(右下) 八月十六日 、南京爆撃の鳥瞰寫眞で、①は火薬庫、➁は兵営、③は外濠、④は兵器廠。
(左下) 徹底的に敵を潰滅しつつある我が海軍航空部隊である。

写真拡大ー敵陣地爆擊に向はんとする我が海軍機

上海は揚子江の河口に近い都市です。上記の様な「滑走路を選ばない」機体であれば、河川の上流でも、滑空、着水が出来ます。上記の記事は、一見、些細な「水上飛行機」の写真ですが、当時の戦略を物語る貴重の一枚と言えるでしょう。

 

写真拡大ー南京の蒋介石政府軍の基地への爆撃

上記、①は火薬庫、➁は兵営、③は外濠、④は兵器廠です。

これも、爆撃前に、張学良派(反蒋介石派)の蒋介石政府軍が、兵器を持ち出して「温存」したのではと考えます。上記、1の火薬庫の爆撃で大きな白煙が上がっているようです。日本軍は極めて少数であった為、自分達の戦力を鼓舞するために、火薬庫を爆撃した写真を撮り、こうした歴史写真のような雑誌に掲載しては、相当な攻撃であるように「演出」していたようです。

 

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