北支事変の真相4ー北支那の分離独立クーデター

北支事変の真相4ー北支那の分離独立クーデター

日中戦争(日本-蒋介石戦争)は、中国北部と中国南部が蒋介石政府から同時に分離独立を図った軍事クーデターでした。北部側を北支事変、南部側を第二次上海事変と呼んでいます。ここでは、当時の「歴史写真」の記事を紹介します。

昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(其一)

記事&写真:

(右下)七月七日午後十時頃、我が支那駐屯軍の一部隊は、北平(北京)の西部約三里盧溝橋の北方一千メトルの龍王廟附近に於て夜間演習中、第二十 九軍麾下、馮治安(ふう ちあん)部隊の第百十旅隊、第二百十九團より不意に不法發砲され、我軍應戰(応戦)、遂に今回北支事變の導火線をなすに至った。寫眞ば我が筒井部隊長が、事變發端(発端)の地たる龍王廟方面を差示しつつある有樣。

(左上)七月八日、盧溝橋方面に於ける日支兩軍の戰闘に於て、我軍の獲た戰利品で、青龍刀、小銃、ピストル、輕機關銃等、是等はいづれも今次事變に於ける記念すべき獲品である。(陸軍省許可濟)

注)麾下(きか): その軍団の指揮者に属する部下

 

この記事は、盧溝橋事件(不法発砲事件)が、馮治安の率いる部隊の兵士らによる発砲であったことを伝えています。この際、日本と蒋介石政府軍(支那軍)の間では、上記のような武器が日本軍に奪われる結果となった事から、日本が勝利したことが判ります。

馮治安: 直隷省(北京政府)出身。馮玉祥の配下。馮玉祥と共に蒋介石政府へ参入。

盧溝橋事件を起こした支那軍(蒋介石政府軍)は、馮治安の第二十九軍の下に、部隊が百十旅隊、その下に第二百十九団とありますので、馮治安が率いていた二十九軍には、部隊だけで百十以上はあったのでしょうか。日本軍に比べたら、相当な大軍です。日本軍が戦って勝てる相手ではありません。要は、馮治安軍は日本軍とは戦わず、武器を置いて、退却していたということです。

 

昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(其二)

記事&写真:

(右上)七月二十日の正午を期して永定河右岸に撤退すべき筈なりし支那二十九軍は遂に我方の最後的通牒を無視し、同日午後零時五十分盧溝橋方面より不法射擊を加へ、續いて各方面より砲火を我に送りたる爲め、我軍は遂に堪忍袋の緒を切り、午後二時三十七分に至り止むなく應戰(応戦、先づ前面の宛平城を砲擊、忽ちその望樓、城閣を壊滅、敵をして沈黙せしめた。
寫眞の(右上)當日の戰況 報告を聽取する牟田口部隊長。
(左下)高梁畑の中に暑熱を冒して陣地を構築しつつある我軍である。(陸軍省許可濟)

 

盧溝橋事件についても、当時の蒋介石政府軍(支那軍)の動きに関する情報は殆ど知られていないでしょう。戦後に出版された資料の殆どは、「日本が惨敗した」前提で意図的に編集されているものが殆どのようです。この記事からは、日本軍が、盧溝橋事件を「収束」させようと努力していた事が伺えます。それに対して、度々、挑発を繰返したため、そこから「軍事衝突」へ発展しました。ここでも、不可解なのは、散々日本軍を挑発した一方、支那軍(初回席政府軍)は案外あっさりを手を引いている点です。

 

昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(其の二)

記事:

支那側の暴戻に備へ、北支に派遣せられたる皇軍の精鋭は、 續々所定の部署に就いた。

写真:

寫真の(右上)〇〇市中を堂々行進中の我軍に、行人、目を峙てつこある有樣
(左上) 〇〇驛 に於て、軍用列車中の我が兵士に冷水を振舞ふ國防婦人會員
(右下) 〇〇市中行進の〇〇隊に對し、在留邦人等『萬歲』 を唱ふるところ
(左下) 〇〇に向って進する〇〇隊である (陸軍省許可済)

注)軍事行動中など、具体的な場所や軍隊名は公表出来ない場合は、「〇〇」として表記したようです。

上記の記事の写真では、一見、日本軍も多そうな感じは受けます。しかし、例えば、右上の写真ですが、写真の右上、通りの奥の方を見ると人が途絶えて壁が見えます。その辺りで軍隊の最後列になっており、壁が見えています。写真では大勢に見えるようで、各都市へ派遣は、せいぜい100人程度の小隊だったと言えるでしょう。

 

 

昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(其の三)

記事:
支那側は我れとの約諾を守らず、却て中央軍の大兵續々北上するとの飛報に接せした爲め、內地に於ける一部の兵は急遽北支に向つて派遣せらるることとなつた。

写真:
寫眞の(右上)〇〇に到着したる鯉登部隊長
(左上)〇〇驛に到着したる〇〇部隊。
(右下)〇〇に到着したる我が〇〇隊が、〇〇砲を擁して今しも宿舍に入らんとするところ。
(左下)〇〇驛內に於ける〇〇自動車の積卸し作業である 
(陸軍省許可濟)

注)軍事行動中など、具体的な場所や軍隊名は公表出来ない場合は、「〇〇」として表記したようです。

 

昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(其の四) 警備の任に就く我が兵士等

記事:
真偽容易に判じ難く、反覆必ず常なきは支那側の常套手段にて、いつ、如何なる場所に、如何なる大事の出來するやも測り難く、彼地に於ける我軍の將士は、警戒常に 怠りないのである。

写真:
寫真の(右上) 平漢線蘆溝橋附近に 支那軍の動静を監視する我が哨兵
(左上) 〇〇市中の我 が警備隊
(右下) 〇〇附近の鐵道沿線を警備する我が兵 士
(左下) 〇〇市中に鐵條綱を張りめぐらし厳戒しつ、 ある我軍と、奉仕の部署に就く國防婦人會の一團である
(陸軍省許可濟)

 

日本もまた被害者

日本軍の指導者達と、張学良や旧北京政府の軍隊、更には満州帝国との間では「水面下での協調体制」があったと思います。しかし、蒋介石には漏れてはならないため、末端の兵士らは何も聞かされていなかったでしょう。敵が攻撃を仕掛けてくるため、これに応戦し、いつ何を仕掛けてくるか解らないため、警護に当たる必要があるという認識だったでしょう。敵を欺くには、まず味方からと言いますので。

上記の写真に写る様な日本兵の多くが、なぜ自分達が勝利出来ているのか本当の理由は解らないままだったのでは無いでしょうか? そのため、戦後、生き残った兵士達も、中国で自分達が本当は何の目的で戦っていたか「反論」さえ出来なかったのかも知れません。上層部の命令に従って動いていた認識だったでしょう。特に生き残った学生や十代の兵士らは、「真相」も「理由」も何も知らされず、後の太平洋戦争での大敗戦の結果と、戦後の「日本が悪者」というシナリオを信じたのでしょう。

一方、「本当の作戦」を知っていた兵士達は、日本の正当性を主張すれば「天皇制の消滅」に成り兼ねない状況で全員が口を閉ざしました。戦地から生きて帰国した兵士の多くが、自殺や自決で生涯を終えたようです。自分達が「正しい」と思って必死に戦って来たことが、中国も含め全世界から「全否定」されたわけですから。私も、「歴史写真」から「本当の真実」を知るまでは、なぜ、せっかく日本へ戻ったのに、自殺や自決する人が後を絶たなかったのか、理由が解りませんでした。ですが、今は、とても良く解ります。陥れられて、冤罪を着せられ、一切反論も許されなかったのですから、自らの命を以て、「精一杯の抗議」だったと思います。

昭和の天皇陛下が、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」とおっしゃった意味が、「それでも生きろ」というメッセージだったのかも知れないと私は思います。

戦後、本当の事情を知っている人間が自ら口を閉じたことが、日本が「中国侵略した」という「冤罪」を、77年以上も全く覆す事が出来ずに来た最も大きな原因といえます。

 

日本は、旧北京政府(満州派)を支援しました。しかし、それは蒋介石政府から中国全土が分離独立するための支援であり、中国を自国の利益のために侵略したのではありませんでした。南北対立が長期にドロ沼化する中、張学良も含め「満洲派の中国人」に、一連の対立へ取り込まれて行ったのが真相です。

 

戦後、現時点で77年。直ぐに100年を迎えるでしょう。

日本への誤解が一日も早く解け、日本の名誉が回復出来ることを願います。中国に限らず、日本は他国の内乱や他国間の戦争には、二度と、決して、軍事支援をしてはいけないのです。このサイトの「真実の歴史」を通じて我々が学ぶべきことでしょう。

そして、日本は、どんな事があっても、戦争はしないと覚悟を持って未来を描けるよう、世界の平和に中心になれるよう生れ変るべきと思います。