第二次上海事変の真相3ー蒋介石軍の無差別空爆

第二次上海事変の真相3ー蒋介石軍の無差別空爆

8月13日の支那軍の日本租界への不法発砲事件の翌日、8月14日には、蒋介石政府軍(支那軍)の空軍が、上海市街に無差別空爆を行いました。この空爆も、日本がやった様な「誤解」があるようですが、日本軍はやっていません。上海は、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカなど欧米の居留民も数多く生活している「国際都市」でした。上海市街地での空爆では、非常に多くの民間人の犠牲者が出ました。

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月)- 惨状目を覆はしむ爆撃の跡

記事:

八月十三日、上海に於て日支両軍逐に戦端を開くや、翌十四日の朝には、敵空軍上海上空に飛来して所構はす爆弾を投下し、尚又同日午後四時半頃には、敵機再び南京路上空に現はれ、無法にも国際社交場たるカセイ・ホテル、パレス・ ホテル及び歓楽境新世界等に爆撃を行ひ一瞬にして千名近き惨死者を出さしめた。

写真は、爆弾を振舞はれたカセイ・ホテル付近の惨澹たる光景である。


昭和12年(1937年)8月14日の、蒋介石政府軍の上海市街地への無差別空爆は、朝と夕方4時半の2度に渡って行われました。朝と夕方4時半の2度だったことは、Wikipediaにも記載が無いようです。戦後は、全てに於いて「日本が悪い」という結論在りきで日中戦争の話が作られました。この無差別空爆のような、蒋介石に不利な情報や証拠は「隠滅」される傾向が強かったといえます。そのため、
この攻撃が、極めて陰湿で陰惨であったかは周知されなかったとしても仕方ありません。

しかし、犠牲者(死亡者)については、「一瞬で1000名近い惨死者が出た」ほどの深刻な被害であったようです。上海の南京路は、歓楽街で非常に多くの人々が集まる場所でした。これは、蒋介石政府軍によるもので、日本軍ではありません。日本軍は、これに防戦するため、空軍を出動させ、蒋介石政府軍と日本軍の空爆戦が勃発しました。

日本と蒋介石政府間での戦争(日中戦争)は、明らかに、蒋介石政府軍からの一方的な奇襲攻撃が原因であるにも関わらず、この事実に大きく焦点が当てられていない事は歴史認識として正されるべきでしょう。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月)- 我彼の空爆戦愈々たけなは(上海方面の四)

記事:

八月十四日上海上空に於ける彼我空軍の衝突を皮切りに、 翌十五日には折柄の荒天を冒 し、我が〇〇なる海軍航空隊 の精鋭機は、荒浪狂ふ支那海を渡つて南京其他敵空軍の本據を爆擊、翌十六日も亦是を續行、尚又、上海方面に於ても我が〇〇機は連日奮闘、多數の敵機を整墜し、同時に又敵の陣地を片端しから壊滅し た。

写真:

寫真の
(右上) 支那軍の 高射砲列。
(左上) 八月十六 日上海浦東の敵砲を爆擊しつつある我が空軍の威容。
(右下) 八月十四日支那空軍の爲め爆擊され多數の死傷者を出したる南京路、パレス・ホテ ル前の惨状。
(左下) 黄浦口上を警備する我が軍艦で、左方高塔のあるは帝國総領事館

 

写真拡大 ー 南京路、パレス・ホテ ル前の惨状

蒋介石政府軍の空爆では、カセイ・ホテルと同様、パレス・ホテルでも大きな被害が有りました。写真左の黒い車のボディーに爆撃と思われる多数の傷が付いています。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月)- 弾丸雨飛下の国際都市(上海方面の八)

写真:

(右上) 〇〇に於て作戰を練る我が陸戰隊の幹部。
(右中) 北四川路方面を警戒 する我が〇〇隊。
(右下) 上海丸に避難した邦人群。
(左上) 血迷へる支那空軍 が佛蘭西租界の海岸を空爆したる有樣。
(左下) 上海共同租界の鳥瞰寫眞でのは① ガーデン・ブリツヂ、➁はフロードウェイ・マン シヨン、③はソ聯獨逸各領事館、④は日本総領事館、⑤は虹口碼頭、⑥はカビトール、⑦は中國中央郵政成處。

 

写真拡大 ー 上海共同租界への支那軍空爆の惨状

① ガーデン・ブリツヂ、➁はフロードウェイ・マン シヨン、③はソ聯獨逸各領事館、④は日本総領事館、⑤は虹口碼頭、⑥はカビトール、⑦は中國中央郵政成處。

上記は上海の外国租界地が集中する場所でした。この無差別空爆は、蒋介石の直接的な指示というより、蒋介石政府軍の関係者が独自判断で決行したものと考えます独自判断での決行が不自然でないよう、張学良とその配下は、敢えて「抗日反日」を強く訴えていたといえます。蒋介石としては、政府軍の誰かが勝手に爆撃を開始し、収拾が付かなくなった状況だったと考えます。

当時、蒋介石政府は、中国で満州地方と内蒙古東部の利権を完全に喪失していました。満州帝国が建国されたからです。

イギリスは、中国の植民地化よりも、インドの北に位置するチベット(西蔵)の植民地化へ方針転換しつつありました。蒋介石政府軍は、イギリスからは大分見捨てられた状態となっており、これ以上の本格的な戦争状態は、イギリスからの十分な支援が見込めない蒋介石としては、回避したいと考えていたでしょう。

8カ月前に起きた「張学良の西安事件」でも「即日対日戦宣」が解放条件でしたが、蒋介石にも財政的に直ぐには踏み切れない理由があったといえます。8月8日に、日本軍が北京入城を果たし、8月9日に大山大尉らの惨殺事件は起こしたものの、ここまでの空爆が行われるとは予想していなかったのでは無いでしょうか。

 

写真拡大 ー 支那空軍 が佛蘭西租界の海岸を空爆

更に、蒋介石政府軍は、フランス租界、オランダ租界、スペイン租界のある海岸へも無差別空爆を行いました。「 血迷へる支那空軍」とありますが、既に、かなりな内部離反(反蒋介石派の形成)が進んでいたとすれば、中国の植民地化に便乗しようとしていたヨーロッパ諸国に対しては、この機会とばかりに、どさくさに紛れて「攻撃」を仕掛けたのではと考えます。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月)-我彼の空爆戦愈々たけなは(上海方面の五)

写真:

(右上) 八月十七日、上海の上空に於て彼我の空中戰あり、敵の一機擊墜せらるに際し、その乗組員の一人はパラシュートを用ひて下降し、ピス トルを以て我軍に抵抗、其場に射殺された。寫真は當時敵の使用したるパ ラシュート。

(左上) 黄浦江上の我が〇〇艦により、支那空軍(蒋介石軍)に爆鰹されたる 米國石油タンクの火焰を望む
(右下) 〇〇〇上より、我軍の爆撃に依り火災を起しつつある敵陣地を望む。
(左下) 前線に活躍する我が〇〇砲隊。

 

写真拡大 ー 支那空軍 がアメリカの石油タンクを空爆

上の写真は、支那軍(蒋介石政府軍)の空軍が、上海にあったアメリカの石油タンクを空爆した写真です。写真の右上に、空爆を行った飛行機が写っています。蒋介石政府とは、イギリスの傀儡政府でしたので、流石に、イギリスへの直接的な爆撃はしなかったようです。しかし、中国の植民地化政策では、イギリスと密接な関係にあったフランス、アメリカに対しては、ここの載せたような「露骨な空爆」を行っています。

アメリカの石油タンクへの空爆は、蒋介石政府軍としては、本来は有得ない行動です。ですが、これは、蒋介石政府軍が、この時点で、既に、蒋介石の思うようには動いていなかった証拠です。張学良の「内部工作」により、空軍でも離反者が大多数を占めていたといえます。離反者とは、旧北京政府側の人間であり、イギリス、フランス、アメリカなど、中国の植民地化政策に関わった国々は「敵国」です。どさくさに紛れて、そうした国々に「攻撃」する絶好の機会だったともいえます。蒋介石との「信頼関係」を壊すにも効果的といえます。

 

蒋介石政府軍による「先制攻撃の証拠」作り

上海での、日本人兵士の惨殺、日本租界への不法発砲、欧米諸国の租界地区への空爆、日本海軍の艦船への空爆、それに続き、佛蘭西租界の海岸への空爆、アメリカの石油タンクを空爆など、蒋介石政府軍の行動は極めて過激だったといえます。日本に対しては、「軍事クーデター」起こすためだったと言えますが、欧米諸国への攻撃の目的は、日本軍との蒋介石政府軍との戦争の発端、又は、原因が、蒋介石政府軍による「先制攻撃」であった証拠を作るためだったでしょう。欧米諸国にまで攻撃したのであれば、日本に責任を追及しようがありません。

また、第一次上海事変の事態収束の際に「国際連盟」が関与したように、第二次上海事変でも、欧州諸国を巻き込み、日本政府との間で仲裁役を自ら買って出て来るように仕向ける目的だったともいえます。人的、物理的に大きな被害が出れば、こうした国々が軍事参戦してくる可能性があります。しかし、被害の出ない程度の「海岸への空爆」であれば、軍事参戦の理由にはなりません。アメリカの石油タンクへの攻撃も、上記の写真の通り、飛行機は一機か二機でしょう。本気の攻撃では無かったということです。本来は、蒋介石の味方であっても、国際的な立場上、蒋介石政府を非難するしかありません。

蒋介石は、英語の堪能であった夫人の宋美齢を通訳にして、欧米のメディアには「虚偽情報」を積極的に流していました。

 

昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月)-最新時事小景 

 

写真拡大 ー外国人記者団の同情を引く蒋介石夫妻

記事:

九月二十四日、蒋介石夫妻が、南京の官邸に在京外国人記者團を招待し、日本空軍の首都爆撃を誣ひ、極力列國の同情を要請したる當時(当時)の寫眞。

介石は、英語の堪能な夫人を利用し、外国人記者団を通じ、度々、日本軍について「在りもしないデマ」を流していました。外国人とは、全員、イギリス、フランス、アメリカなど、中国の植民地化政策に同調していた諸国の出身です。事実がどうであれ、本人の意志がどうであれ、政府の意向で「虚偽の記事」を書いては、祖国へ送り、一般大衆に「日本への誤解」が生れるよう仕向けていました。

以前の「南京大虐殺の真相」ブログにも掲載した通り、蒋介石夫人の宋美齢は、蒋介石が捏造した「日本軍による虐殺行為の証拠写真」を以て、アメリカに、日本と戦わせるために、全米を演説して周っていました。宋美齢の父親は、中国系アメリカ人でしたし、宋美齢もアメリカで育った人物です。いくらアメリカ育ちとはいえ、どうして同じ中国人にここまで酷い仕打ちが出来たのか理解に苦しみますが、巨額の対外軍事借款を抱えていたことを思えば、誰を騙しても、どんな卑劣な手を使っても、生き残るのに必死だったかも知れません。

本来であれば、イギリス、フランス、アメリカなど、欧米諸国は「攻撃された側」であるため、本来であれば、同じ目に遭った日本側に味方し、蒋介石政府軍と戦っても不思議ではない状況でした。しかし、中国の植民地化という目的で、はじめから蒋介石政府の「味方」でしたので、当然、日本軍を支援することはありませんでした。

戦後、日本が中国で行った戦争について「全て日本の責任」であるというシナリオで歴史が作られたため、このページでの真実には未だに全く光が当たっていません。