第1次上海事変4―上海事変と停戦協定

第1次上海事変4―上海事変と停戦協定

第一次上海事変は、満州国の独立宣言の約20日前に始まり、満州国の建国の2日後、3月3日に「日本軍が停戦」し終焉しています。その後は、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアなど上海に居留区を持つ欧米の列強国が仲介し、日本と蒋介石政府下のちゅうかみん

昭和7年4月(1932年4月)発行「歴史写真」から
昭和7年2月(1932年2月)上海事変と列国

記事

海は東洋第一の國際都市であるだけに其地に於け る日支兩國の交戰は各關係列國に異常の衝動と昂奮 とを與へたのはいふまでもなく、聯盟理事會は三月三日よりジュネーヴに總會を開催して前後策を講ずる一方、上海礎舶中の英國巡洋艦『ケント號』上に於て圓卓會議を開くこととなり、聯盟側の上海現地調査委員一行は二月二十九日上海へ向か途上、東京に立寄り、政府要路の大官連と會見種々懇談するところあり、一方ジュネーヴの聯盟總會に於ては我が代表佐藤大使對支那代表顏慶惠氏との論戰猛烈を極め此項締切までには上海事變對國際聯盟の成行きは全く豫斷を許さず形勢甚だ樂觀し能はざるものがあつた。

 

上記の記事は、上海事変における国際連盟の動きに関する記事です。記事の左側の写真は、上海へ向かう途中で日本の東京に立寄った国際連盟の調査委員の一行です。連盟調査員のほぼ全員が欧米人であり、基本的には初めから蒋介石政府側の国の代表です。日本の主張は認められるはずはなく、蒋介石を利用する形でイギリスやフランスが最も狙っていたのは、豊富な天然資源を持つ満州蒙古地域でした。当然、満州国の中国からの分離独立には猛反対したはずです。当時の日本は、記事の楕円で囲まれた写真の佐藤大使が代表となり、支那(蒋介石政府)側は顏慶惠という人物が代表になり、「論争猛烈」を極めたようです。

満州蒙古の天然資源は、蒋介石にとっては、それまでの対英仏への多額の軍事借款の「返済資源」であり、国家としての独立は、何としても阻止したいところでした。一方、満州側(旧北京政府側)にすれば、蒋介石政府と同じ国であれば、結局、蒋介石が行った数々の内乱戦争の多額の軍事債務を一手に背負わされるのは目に見えており、これを回避するには、国家として分離し独立し、蒋介石政府の中華民国とは一線を引く必要がありました。

満州国の建国は、日本が中国を侵略するとか、日本が自国の利益のために傀儡国家を作ったとか、そのような程度の理由ではなく、孫文の革命以降の数十年に積もり積もった欧米諸国への対外軍事借款による債務義務を「完全に放棄」する必要性から、満州蒙古民族が長年掛けて準備し達成したことです。

日本が太平洋戦争に大敗し、蒋介石政府側の理論で戦後処理が行われた結果、一般的な世界史では、満州国は日本の傀儡国家となっていますが、武井先生の「戦争は金が理由で起きる」の通りで、国家の分離や独立にも必ず「経済的理由」が存在します。この時は、蒋介石政府の多額の軍事借款による債務の「放棄」が最大の動機でしょう。満州国(旧北京政府)側は、満州蒙古地域から産出される豊富な鉄鉱石などにより、軍事兵器を国内生産していました。一方、蒋介石政府側の南部は、広大な農地はあっても、天然資源の産出には乏しく、軍事兵器はほぼ全て欧米やロシアから輸入していました。その資金はほぼ全て欧米からの軍事借款で賄われていました。その代わり、中国の植民地化を推進することが要求されたのは言うまでも無いでしょう。

昭和7年5月(1932年5月)発行「歴史写真」から
昭和7年3月(1932年3月)停戰會議(停戦会議)

記事:

去る三月一日上海に於ける我が海陸空軍の總攻擊開始と共に支那軍は全線に亘って總崩れとなり同月三日には昆山嘉定の線にまで追い詰められたので、支那軍に對する最初の要求、即ち二十キロ撤退が今や實現された形となりたるを機とし同月中旬より上海にて彼我兩國代表に英米佛伊四國公使を加へたる停戰豫備會議を開くこととなり幾多波瀾を閲したる後、同月下旬よりいよいよ本會議に入り同時に軍事專門委員會を開催して協議するところありたるが、會議の最難關たる日本軍の撤収地域問題及び撤収期日問題に關して日支兩代表は毎回徒らに激論を重ねるのみにて賞質的に協議幾干も進捗せず其間廔々會議は決裂に瀕し、此稿〆切の四月九日に至るも協定成立の見込立たず前途暗澹たるものがあった。寫眞の右は事館に於ける本會議。左上は軍事小委員會である。

 

注)廔々(屡々):しばしば

 

満州事変を経て満州国の独立建国を達成したとしても、当然、南部の蒋介石政府(中華民国)は、独立阻止に動く事は明白です。「北伐」の際と同様、北部への大規模な軍事侵攻の可能性は否定出来ません。「上海事変」は、これを事前に阻止するために取られた戦略だったと考えます。

そのため、独立宣言の20程前に「軍事攻撃」を開始し、建国の2日後に「停戦」し、その後、3月24日ようやく「停戦会議」の本会議に入り、停戦協定の成立と調印は5月5日である通り、停戦後約2カ月間、交渉を長引かせています。これは、意図的に2カ月も掛けたのか、偶然2カ月も掛かったのかは不明です。しかし、満州国からすれば、建国後の2カ月間を、蒋介石政府軍との戦闘に費やすことなく、政府内閣の確立や国際承認へ向けての準備などを出来たことは大きなメリットだったといえます。

更に、5月5日に、日本と蒋介石政府との間で「停戦協定」が調印されたことで、蒋介石政府が満州国に対して「北伐=軍事侵攻」を行う理由を封じたといえます。なぜなら、満州国は、独立国家ではあるものの、満州事変を経て、日本が占領した地域に建国した国家だからです。欧米や蒋介石からは、日本の傀儡国家と言われても仕方ない構図だと思います。しかし、実質的に、かつ、満州国として最も被害無く「分離独立」を果たすという目的を考えたとすれば、表面上は、日本の傀儡国家に見えたとしても、蒋介石に対して、日本に戦わせることで、独立後に想定される「大規模な軍事紛争」は確実に回避出来ます。

「上海事変」で、日本と蒋介石政府との間での「停戦協定」は、実質的に、満州国の「防波堤の構築」に繋がります。そのため「上海事変」は非常に重要な戦略だったと言えますが、ここでも張学良の役割は非常に大きかったといえます。

 

昭和7年7月(1932年7月)発行「歴史写真」から
昭和7年5月(1932年5月)上海に於ける金澤〇團徳野〇隊の撤収

記事

 

去る三月二十四日上海に於ける日支兩車停戰の正式交渉を開始してより本會議を重ねること十五回、小委員會を開くこと二十回、此間或ば聯盟の議に上り、會議は幾たびか停頓決裂の危機に逢着したるも、五月五日に至り遂に彼我兩國の協定成立し完全なる調印を見るに至つたのであるが、我軍は本協定の忠實なる履行の第一歩として、早くも五月六日宇都宮〇團、金澤〇團の各部隊は夫々前線地域より撤収を開始し、協定による四週間の期間を待たずして全部の撤収が見込み充分となったので、外人方面等に於ては我軍の敏速なる行動に驚嘆の辭を放つ有様であつた。寫眞は同月十日羅店鎮より楊行鎮に向て撤収したる金澤〇團德野○隊の盤井小佐と支那側の接收委員寶山縣長孫熙氏とが堅き握手を交わしつつある光景である。

 

上記は、停戦協定の調印後、日本軍の撤収を伝える記事ですが、この停戦協定の交渉では、本会議だけでも15回開催され、小委員会は20回も開催されました。これは、日本軍は、当初より、蒋介石軍を上海より「二十キロ撤退」することを要求していました。当時の情勢からすれば、日本は満州国の独立を認めること=満州国の国際承認を「停戦条件」にしたといえます。当時、国際連盟の調査團としてイギリスのリットン卿が満州国へ出向いています。この際には、蒋介石政府か顧維鈞氏が同行し、満州国から入国を拒否される事態がありました。その後、入国となり、調査を行ったようです。日本にとって「停戦条件」の着地点としては、蒋介石が、満州国へ軍事侵攻はしないことだったでしょうか? 日本との停戦協定の成立が、蒋介石の満州への軍事侵攻を不可能にする「防壁」となったのは事実でしょう。

 

昭和7年6月(1932年6月)発行「歴史写真」から
昭和7年4月(1932年4月)執政府に溥儀執政訪問中の一行

上記の写真は、リットン調査団が4月21日奉天に到着し、執政溥儀氏と会見中に撮られたものです。写真の中央で眼鏡を掛けた人物が、満州国皇帝の執政溥儀氏ですが、列強の国々の代表団を前に堂々たる執政振りです。後ろの軍服は、当然、満州軍でしょう。満洲国とは、清帝国の再興だったのです。

通常の植民地支配では、皇帝や王族は処刑などを行い、国家の求心的存在を排除します。当時は、日本同様に小さなイギリスやオランダやポルトガルも広大な植民地を運営していたため、日本も傀儡国家だ、植民地だとされましたが、国家の求心的存在である皇帝を即位させるという決定的な違いがありました。日本が主導していたようで、彼らは、清帝国を築いた民族です。日本は、彼らの独立のために「利用された」とも十分考えらえるほど、清帝国は大国家だったことを忘れてはいけないと思います。

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