第1次上海事変3―上海事変と満州事変

第1次上海事変3―上海事変と満州事変

満州事変は、満州国の分離独立の軍事クーデターでしたが、第一次上海事変は、満州事変の最終段階として起きた中国南部海岸地域での「軍事紛争」でした。当時の蒋介石政府の軍事力を鑑みれば、独立と同時に、北部への軍事侵攻が開始されても不思議はありません。上海という都市が、蒋介石政府側の列強国であるイギリス、フランス、アメリカなど多国籍の国際都市であったこと、蒋介石の政府所在地の隣の大都市であったこと、海に面した地理的立地など、日本が「おとり」となる作戦には非常に適した場所だったといえます。

しかし、10倍以上の蒋介石政府軍との戦いは非常に熾烈を極め、多くの犠牲者を出す結果となりました。日中戦争は、一般常識的には、昭和12年7月、第二次上海事変以降となっていますが、私は「満州事変」からだと思っております。これは、当時の中国での一連の戦いが、北部東北部の満州民族系と、南部南西部の漢民族系との間の「民族独立紛争」が根底だからです。日本は、当初、この南北戦争には関与しない様に逃げていましたが、蒋介石の独裁的な政治運営に対し、中国全土から「反発」が起きるに至り、北部東北部地域(満州)地域から、蒋介石政府統治下の中華民国から、完全分離独立を図る動きが起きたため、ある種のカモフラージュ的役割として、軍事関与するに至ったと考えます。蒋介石軍は、単なる1都市での戦闘でも、10倍以上の兵力差をもつ大軍です。この現実を考えただけでも、そもそも日本に中国侵略など初めから不可能なのは明白です。

第一次上海事変は、ある意味、日本にとっては非常に大きなリスクを背負った「戦い」だったと思います。

 

昭和7年4月(1932年4月)発行「歴史写真」から
昭和7年2月(1932年2月)尼僧等の活躍

記事:

二月十二日の朝、上海に於ける彼我両軍の九千時間を利用し上海義勇軍のベル大佐令嬢及びフランス尼僧等十三名は閙北戦線に残留する非戦闘員救出班を組織し、赤十字旗を先頭に支那街に入り、無法なる便衣隊の狙撃を物ともせず支那婦女子其他無辜の非戦闘員二十数名を救出した。寫眞は即ち当日の活躍ぶりである。

上記は、第一次上海事変での市街地の破壊状況が良く解る写真と思います。この状況では、逃げる途中に便衣隊に射殺か強姦されるため、婦女子は瓦礫に身を潜めて救出を待ったいたようです。戦争によって犠牲になるのは、無辜の民(罪のない市民)であり、婦女や子供であることを忘れてはいけないと思います。

昭和7年4月(1932年4月)発行「歴史写真」から
昭和7年2月(1932年2月)彼我戰死者の収容と負傷者手當(手当)

記事

去る一月末、我が上海に於ける海軍陸戰隊が支那側の暴戻 に對し遂に堪忍袋の緒を切って以來、約一ヶ月に近き市街戰から二月二十日陸海軍共同作戰の下に開始せられたる總攻擊に續き三月三日我が軍司令官及び艦隊司令長官の停戰命令に至るまで殆ど寧日なき戰闘に於て陸海軍の死傷者中 陸軍は戰死百八十八名、負傷者一千三百八十七名、海軍は三十二名、負傷六百七十八名に上り、敵の死傷は約三萬五千と註せられた。寫眞の右上は支那軍の戰死者收容。左下は我陸軍の戰死者を赤十字隊が後送しつつある有樣。 左上は閘北の市街戰に傷つける海軍の一下士に應急手當(応急手当)を 施しつつある光景で孰れも強く我等の胸を搏つものがある。

上記は、一都市で一か月ほどの戦闘における死傷者数です。日中戦争全般、蒋介石側の死傷者数は、日本軍の死傷者数に比べ、異常な程多いですが、第一次上海事変でも、蒋介石政府の正規軍には大きな人的損害を出しています。蒋介石が中国側(蒋介石政府軍)の「被害を誇張」した可能性もありますが、たった1カ月で約三萬五千人もの大規模な犠牲者が出た理由としては、蒋介石政府軍は、「大軍」ではあるものの、実際には軍事訓練の殆ど出来ていない一般民間人に、無理やり軍服を着せて「最前線」に送り込んでいた為と思われます。「便衣隊」など、一般人と同じ服装で軍事行動を行う部隊を保有しており、表向きは、兵士が一般服を着ていたことになっていますが、本当は、単に扇動された一般民衆であったのでは無いでしょうか?

 

昭和7年3月(1932年4月)発行「歴史写真」から
昭和7年2月(1932年2月)独立を宣したる満蒙新国家の元首と大漢

記事:

限りなき資源を蔵して而もその開発意の如くならず、徒らに張学良一派軍閥の圧迫と搾取に苦しみたる満蒙三千萬民衆は、今回図らずも勃発した満州事変に際し、我が日本軍の武威遂に良く彼の暴戻なる軍あb津を掃蕩し尽くしたる機会に乗じ、全民衆の総意に依り茲に中華民国を離脱して新たに自主独立することとなり、うちは王道を以て基準とし人民の安寧福利を増進し、外は門戸開放、機会均等主義を尊重して外国と修睦する方針の下に、愈々二月十八日中外に向って独立を宣言したが、その元首には前清国皇帝たりし宣統帝即ち溥儀氏を推戴して執政と呼ぶこととなり新国家建設の衝に当たるべき最高政府委員会は張景恵、馬占山臧式毅、熈洽及および湯玉麟の五氏を以て組織せられ、建国の大業は今や着々進捗しつつあるのである。寫眞の左は新国家の元首となれる溥儀氏、右は二月十六日奉天大和ホテルに於いて徹そう建国会議を催したる巨頭連で、右より馬占山氏、臧式毅氏、張景恵氏及び熈洽氏である。

満州国が建国されれば、蒋介石政府軍からは、独立阻止のため、相当な軍事攻撃を受けるであろう事は想定したといえます。張学良は、父親の張作霖と2代に渡り、奉天はじめ満州を独裁していたかの様な記述ですが、実際は、満州国の独立に最も貢献したのは、他でもない張学良だったと考えます。

当時、張学良が率いる東北軍は、日本軍とは22倍の兵力差のある大軍でした。普通に考えれば、日本軍が総勢で立ち向かっても、勝利など不可能です。そのため、日中戦争では、日本が大敗したとの「理解」になっていますが、日本は「圧勝」でした。当然、日本軍が圧勝していたのには理由があります。

蒋介石の傘下へ下った「張学良」が、実は裏で蒋介石を裏切り、東北軍をわざと敗戦させていたからです。蒋介石政府の正規軍が、どの程度満州地域へ分散していたかは不明ですが、張学良が東北軍の総統である以上は、張学良が「蒋介石政府軍」も含め、全軍を動かしていたのは明白です。奉天では、あっさり日本軍に入城を許し、更には、自ら満州の奉天より、華北の錦州へ拠点を移しています。

これは、表面上は、無能な張学良が逃げたように見えますが、実質的には、満州地域と中華民国(蒋介石政府)との間に、張学良が自分の軍隊を以て「防御壁」を形成したも同然です。「満州事変」が起きれば、当然、蒋介石が満州方面に軍事侵攻するのは必須です。その際、蒋介石側に寝返った張学良が居れば、先ずは張学良が動くことになります。張学良は、満州地域での全軍の掌握のために、祖国を裏切る真似をして、蒋介石に接近したといえます。

張学良は蒋介石の目を欺くため、日本軍と小競り合い程度に「軍事衝突」や「鉄道破壊」などは行い、一方で、ほぼ全ての都市で日本軍に「無血入場」させていました。当時は、戦線状況の報告は、せいぜい電報程度ですので、東北軍は潰滅状態である「演出」も可能だったでしょう。

 

東北軍は「大敗」を繰返し、兵士達は、一旦、俘虜として日本軍に捕えられるものの、実質的には、故郷の満州国の軍隊へ戻るという筋書きでしょうか。当時、張学良が軍事拠点を移した「錦州」という都市は、奉天と山海関(万里の長城の東端)との中間地点でした。ここに、東北軍を集結させています。中国本土側から、満州地域への進軍は、山海関を通過する必要があります。錦州へ、東北軍を集結させた理由は、最悪の場合、蒋介石軍が北上し満州地域へ進攻した場合、防護壁となり、これを討つためだったと言えます。また、軍隊を満州南部へ集中させることで、ハルビンや長春など北部の地域への軍事配備が手薄となります。

上記の図、山海関から左に延びるギザギザは万里の長城です。中国本土側からの軍事侵攻では、この山海関が要所となります。錦州であれば、万が一にも備えられます。

 

南満州鉄道は満州族が主導する北京政府や後継の奉天政府と日本が協力して建設発展させて来た鉄道路線です。鉄道施設付帯設備の権益は日本であり、北京政府や奉天政府など北部東北地域で成立した政府は、蒋介石の南京や広東の東南部地域の政府とは、政府間での経済共有には当然至っておらず、「北伐」後は軍閥政府分離と内乱状態に陥り、蒋介石政府には満州東北地域での巨額の経済権益の恩恵など配分される見込みすらない状態でした。一方、満州東北地域は日本との経済協力の下、着々と近代化を進め経済発展を遂げており、満州の独立建国は時間の問題だったと言えます。

蒋介石のお膝元である上海で「軍事紛争」を起こすことは、満州国の分離独立の際の蒋介石政府軍の動きを制するためには必須の戦略だったといえます。

 

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

日本ブログ村に入村しています。

読み終わったらクリックお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA