第1次上海事変5―上海事変と張学良

第1次上海事変5―上海事変と張学良

張学良という人物は、後の西安事件も含め、行動が意味不明だと言われているようです。張学良の父親である張作霖は、一般的な世界史では、日本軍が暗殺したことになっていますが、このサイトで説明の通り、暗殺したのは蒋介石です。目的は、「北伐」で完全勝利し、旧北京政府の解体、満州地域を支配下に置くためであり、敵軍の大総統であった張作霖を、最も暗殺したい人物は「蒋介石」でしょう。

これを張学良が理解出来ていない訳はありません。必然的に、張学良にとって、最も憎むべき人物は蒋介石であったといえます。父親の張作霖の死後、易幟を受入れ、蒋介石政府へ下り、張学良は日本とは敵対関係になって行きましたが、この頃より、満州国の分離独立を目指し、蒋介石政府を内部から崩壊させることを目指していたとすれば、張学良の不可解な行動にも自然と納得が行きます。蒋介石政府で密かに内部分裂を目論むには、蒋介石の信用と勝ち得る必要があります。日本とは敵対関係を装い、裏では繋がっていたとしても不思議はありません。

満州事変は、張学良が、直属軍である東北軍を「蒋介石政府軍として」動かし、本体を錦州へ集結させ、自らは故郷の奉天を放棄し、北京へ移動し、結果的に、日本軍が満州を全面支配下におけるよう、日本軍に有利な状況を作っていました。上海事変の際も、蒋介石軍が北上しないよう、北京へ南下し、結果的に自らが「防御壁」となっていました。

Wikipediaによると、北京では、イタリアのムッソリーニの令嬢と恋人関係を噂されるほど親しくしていたようです。上海事変では、イギリス、フランス、アメリカに加え、イタリアが公使として参加しています。欧州では、ドイツとイタリアはキリスト教のカソリックの信仰国であり、上下に連結して考えれば、東ヨーロッパと西ヨーロッパの境界線となる地理にあります。イギリスとフランスは植民地政策では協調関係にあり、アメリカは、元々はイギリスとフランスの植民地である国です。この3国に対し、イタリアは欧州での立場も、植民地政策についても、異なる立場でした。満州国の分離独立を目指していたとすれば、張学良が、「上海での軍事衝突=上海事変」での「停戦交渉」では、日本(満州国)に少しでも有利になるよう、また、適宜、交渉が長引くよう、ムッソリーニの令嬢を通じてイタリアに働き掛けていた可能性は否定出来ません。むしろ、張学良が、イタリアと日本、ドイツと日本を結び付ける役割を担ったかも知れません。

 

 

昭和7年4月(1932年4月)発行「歴史写真」から
昭和7年2月(1932年2月)独立を宣したる満蒙新国家の元首と大官

上記の記事には、「限りなき資源を蔵して而もその開発意の如くならず、徒に張学良一派軍閥の圧政と搾取に苦しみたる満蒙三千万民衆は・・・」とあります。他にも、父親の張作霖、張学良の二代に渡り、満州が独裁で苦しめられ、満州事変で一掃出来たので、旧清帝国の皇帝を立てて分離独立したとさえ書かれています。

戦後も、この理解が一般的のようです。しかしながら、張学良がここまでの故郷の満州の人々から誤解され、汚名を着てまで、蒋介石政府に寝返り、蒋介石政府軍の動きを実質的に封じたからこそ、満州国は、蒋介石政府軍との熾烈な戦争無く、独立に至れたといえます。

満州東北地域は蒋介石の統治下ではあったものの、実質的には、張学良を通じて政府や軍隊が機能しており、蒋介石からすれば「信頼出来る腹心」の張学良がいれば、満州民族の独立を阻止し「統一中国」の維持出来ると考えていたでしょう。しかし実際には、張学良が満州民族の独立に向けて、準備が整うまでカモフラージュ的な役割を担っていました。蒋介石はそれを読めず、また、政府内での立場上、東北軍を統べる張学良を排除も出来ずにいたといえます。蒋介石は、満州事変以前も以降も、常に、抗日反日の姿勢であり、日本人居留民等に対して卑劣な残虐行為を繰返していました。しかし、日本と満州には、それを逆手に取られる形で「上海事変」の口実を与え、結果、満州国の分離独立を阻止することに失敗したといえます。

張学良は、満州国の独立建国では、蒋介石に対する「盾」となり、誰よりも大きな犠牲を払い貢献したと考えますが、満州国や日本からは「裏切り者」や「独裁者」の汚名を着ることとなり、翌年、旧清帝国皇帝が、満州国の皇帝となる姿を、どのような心情で見守っていたかと思うと切なさを禁じ得ません。

南満州鉄道事業は、権益は日本が保持していても、満州民族や蒙古民族にとっても大きな国益につながる事業であり、鉄道網や駅など付帯設備、周辺の鉱山、製鉄所など鉄鋼産業事業など、安全を保つ事が最優先でした。蒋介石による度々の襲撃や破壊工作などを完全に封じ込めるためには、政府としてだけではなく、国家として国境を設け、一切の影響を断つより他に選択は無いという結論に至ったといえます。折しも、「北伐」、「張作霖の暗殺」、そして「易幟」により、満州東北地域に「青天白日満天紅旗」という漢民族を示す赤い旗が満州全域に掲げられました。これは、満州民族にとっては「軍事占領」であり、相当な屈辱であっただろうことは想像に易いといえます。当然、民族独立分離の動きに拍車を掛ける結果となったといえます。

満州東北地域への経済進出で日本は確かに多額の利益を得ていたのは事実です。しかし、目的は、現在の日本同様、天然資源の確保が中心であり、日本は満州東北地域にとっては、最大投資家であると同時に、最優良顧客であり、最大消費国でした。当然、満州東北地域の政府にとっても大きな経済的メリットがありました。

満州東北地域での経済活動上の安全を保つこと、及び、満州民族としての尊厳を保つこと、そして、何より、蒋介石政府の軍事借款債務義務を回避することが、満州国を分離独立させるに至った本当の理由といえます。満州事変は、1932年3月の満州国の独立を以て収束し、その後は国家としての体制を整え、1934年3月には満州帝国として成立に漕ぎ付けます。

満州事変は、現在の歴史では、日本が自国の利益のために満州東北地域を支配下に置くため、満州国という傀儡国家を建国したというシナリオになっていますが、当初より、漢民族と満州民族との異民族間対立に加え、南満州鉄道の権益争いという国家経済に関わる問題があり、そこから生じて来た武力衝突であったのが本来の正しい見方であるといえるでしょう。

張学良も汚名を着た一方、日本も世界中から汚名を着る結果となったといえます。張学良も日本人も、母国の存続ために、戦後、当時のことについては「沈黙」を貫くしかなかったと思います。

 

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