北支事変の真相5ー通州での大量銃殺事件

北支事変の真相5ー通州での大量銃殺事件

北支那では、8月8日の日本軍の北平(北京)入城の前7月29日に、北京郊外の「通州」にて、日本居留民と同胞の中国人、約200名が、蒋介石政府の保安隊に銃殺される事件が起きています。これは、日本軍が、事件前日の7月28日に、北京郊外の「南苑」、「西苑」、「北苑」から蒋介石政府軍を掃蕩したことへの「報復襲撃」だったといえます。

以下、通州での銃殺事件の記事です。

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月) 鬼畜残虐の都通州を吊ふー(支那事變特輯 北支方面の三)

記事:

七月二十九日の夜牛、通州保安隊の叛亂に依り我が同胞二百餘名が残忍非道鼻極まる大虐殺に遭ひたるは、我等の永久忘る能はざる痛恨事である。

写真:

寫真の(右 上) 糞東政府長官股汝耕氏夫人が、天津に於て此の惨事を知り深き悲愁に沈めるところ。
(左上) 通州西大街に於ける邦人多数銃殺せられたる地點。
(右下) 虐殺の行はれた通州第一の旅館近水樓表玄關口の惨狀。
(左下) 機牲者の墓に又新たなる涙を溜ぐ人々である

上記記事には、「鬼畜残虐」とありますので相当残忍な事件だったのでしょう。こうした攻撃も、日本軍が極めて優勢であったことへの「報復行為」でしょう。この事件は、以下の記事の通り、前日7月28日の、日本軍による「南苑」などを平定したことに対する報復でした。

 

写真拡大-虐殺事件のあった旅館、近水樓の玄関

上記は虐殺現場となった旅館の玄関で、写真には遺骸は写っていませんが、モノクロでも大量な血痕の跡が解る様な写真となっています。この事件は、後に南京大虐殺の証拠として残っている写真を予見させる出来事だったかも知れません。蒋介石政府軍の残虐さを物語るエピソードといえるでしょう。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年7月) 南口鎮の猛砲撃と西苑支那民家の日章旗

記事:

八月上旬、北平城頭に我が日章旗翻る頃、 南京政府の命を受けたる中央軍「湯恩伯」所屬第八十九師は、察哈爾省張家口方面より漸次南下し来り、八達峰の嶮を越えて河北省南口に進み、此處を根據として一気に河北の心臓部平津を衝かんとする態勢を示したるに依り、我が〇〇部隊は、疾風迅雷の如く北平街道を北上して南口に迫り、同月十一日朝より、猛砲撃を加へて敵に殲滅的打撃た與へたが爲め、南山市街は忽ち火を發し、黒煙点に沖する中を敗残兵等算を亂して山嶽方面に潰走し、 その狀景轉た凄光を極めた。

写真:

寫眞の(左下)は南=東南力の高地 か望む光景である。又
(右上)は、七月二十八日、我軍が北平郊外の南苑、西施、北苑其他に蟠踞せる第二十九軍の敗残兵を掃蕩すると共に、西苑の支那民家に於て、戸毎に日章旗を揚げ、皇軍の入城を歡迎しつつある情景である。

注)蟠踞(ばんきょ):根を張って動かないこと。わだかまること。

 

上記の記事では、「七月二十八日、我軍が北平郊外の南苑、西施、北苑其他に蟠踞せる第二十九軍の敗残兵を掃蕩する」とあります。この時点で、敗残兵の掃蕩まで「日本軍が圧勝」していたといえます。また、北部の分離独立のための戦いであることは北部の中国人も理解しており、民家の軒先に日章旗を掲げて応援してくれていました。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月) 北平(北京)入城の前

記事:

北平天津間に蟠居し 皇軍に抗し、又屡々約諾を無視して我に不法射撃を加へたる宗哲元麾下の第二十九軍も、喉然奮起したる我軍無敵の攻撃には、真に鎧袖一觸、惨敗に惨敗を 重ねて遂に潰走、永定河左岸又敵影を見ざるに至った。

写真:

写真は八月上旬、皇軍北平に入域 せんとし、同市廣安門附近に於て、兵士等休憩。賑やかに晝食(昼食)を攝つつある有様である。

満州事変の際もそうでしたが、北支事変の際も、北部での戦いは、ある意味、味方同士での「形式的な衝突」ではあったため、それほど緊迫した状況ではなく、日本軍の兵士は、昼食を、賑やかに、みんなで食べる余裕がありました。上記の写真に写る兵士が、なぜ明らかに劣勢の日本軍がこれほど圧勝の連続だったのか、本当の理由を知っていたかは不明です。ですが、事実として、北支事変でも、第二次上海事変でも、日本軍は圧勝の連続であり、日本を利用した独立軍事クーデターであったことは、歴史の資料を見れば明らかでしょう。

上記写真も、北支での戦いは「日本軍が圧勝」であった証拠といえるでしょう。

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