日本軍の圧勝の真相3ー保定の陥落
昭和12年(1937年)9月には、北京の南西部の都市である保定を陥落します。保定(ほてい / パオティン)という都市は、北京の南西、黄河の北側にある河北省中部の商業都市です。北京から中国南部へ抜ける交通の要所であり、清代以降は、首都であった北京防御の軍事拠点でした。また、直隷派の軍閥の主要都市でした。
蒋介石の「北伐」で「中華民国」を奪われて以降も、この地域は、直隷派の馮玉祥(ふう ぎょくしょう)の軍閥(軍隊)の統治下にありました。馮玉祥は「中原大戦」で蒋介石と戦争を起こした人物です。張学良の仲裁により「中原大戦」が収束した際、張学良の招きで蒋介石政府側へ付きました。表向きは蒋介石側で「抗日反日」を騒いでいましたが、実際には、「中華民国」の奪回工作の要人だったといえます。そうでなければ、日本軍が勝てる訳が無いからです。
北京政府の4大軍閥については、「北伐の真相1ー第一次支那動乱」ご参照
昭和12年11月(1937年11月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年9月(1937年9月)河北の中堅保定を目指して強行進軍
記事:
保定は不漢線に沿ふ河北随一の都會で、人口二十餘萬、一時は支那軍部の中框ともなりたる處とて、今何は軍官學校、中央軍兵合か始め官然多く 支那軍は夙に此地を以て河北作戰の策源地となし、防備大に努めたが、無敵皇軍の銃鋒に逢っては一たまりもなく、九月二十四日、その婉然たる城壁上には既に日章旗の飜翻としているがへるを見るに至った。
写真:
寫眞の(右上)堂々保定に入城する〇〇部隊。
(左上)我軍、保定驛(駅)を占據し、建物に隠れて抵抗する殘敵を掃蕩しつつある有樣。
(右下)廣き街道の如き觀ある保定城壁上の皇軍。
(左下)我軍保定に入り市中行進の光景である。
中国の都市は、ほぼ全て、こうした大きな城壁で囲まれています。なので、南京城、北京城と呼びます。保定も上記の様な城壁で囲まれた大都市でした。都市人口は、上記の記事によれば、当時で20万人以上だったようです。
保定は、支那軍=蒋介石政府軍の軍事拠点であった場所です。日本軍が普通に戦って攻略できる都市ではありません。しかし、到着とほぼ同時に陥落しています。
写真拡大ー保定城壁上の日本軍の万歳
上記の写真も、日中戦争が、北部政府(旧北京政府派)による「中華民国」奪回のための戦いであり、日本が「占領する戦略」だったと結論する理由です。右上の入場の写真を見ればですが、日本軍の兵士数は物凄く少数です。写真では「大勢」に見えるよう工夫されていますが、写真に写る人数だけだったかも知れません。「激戦」とは、ある程度、軍事的に対等であるから成立するもので、日本軍の人数では、城壁の上から一斉射撃を受ければ潰滅でしょう。「激戦」が繰り広げられる程度に、大勢の兵士は、全く派兵出来ていなかったのが実態でしょう。
蒋介石政府軍の軍閥は、最低でも20万人規模です。保定にも、数万の兵士が居て当然です。それでも、日本は圧勝して、入城と同時に陥落し、城壁の上で笑って記念写真を撮ることが出来ていたのです。
写真拡大ー保定入城の日本軍の行進
上記の写真も、写真の左側に写る中国人市民が日本国旗を掲げています。保定にも在留邦人は居たと思いますが、服装からして現地の中国人の市民でしょう。馮玉祥の軍閥の統治下ともいえる都市で、この状況です。蒋介石政府軍の主要な軍閥を率いた人物でしたが、蒋介石政府を最も潰したかった中国人の一人だったかも知れません。
この写真も、日中戦争は、日本軍は中国各地を「占領しました」が「侵略ではありません」という結論の根拠の一つです。
北京と保定の位置関係(Google Mapから)
中国の主要都市(広域図)(Google Mapから)