南京北京新政府樹立の真相2-北支臨時政府の成立

南京北京新政府樹立の真相2-北支臨時政府の成立

昭和12年(1937年)12月13日の南京陥落の翌日、12月14日には、南京自治政府が成立し、同日12月14日、北京では「中華民国」の臨時政府の成立しました。昭和3年(1928年)12月の「易幟」により旧北京政府が解体され、蒋介石に「中華民国」を奪われましたが、9年に及ぶ「不屈の戦い」の結果、ようやく、北京政府が復活し、蒋介石から「中華民国」を奪回しました。また、この時、蒙古連盟自治政府も成立しています。

 

北京での新政府成立(北支臨時政府)

 

昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」から
昭和12年12月(1937年12月)-中華民国臨時政府成立す

記事:

皇軍疾風迅雷の活躍に依り、黄河以北の地より、國民政府の勢力全く一掃せらるると共に、北支民衆待望の新政府愈々樹立せらるることとなり、敵の首都南京陥落の翌日即ち十二月十四日、中華民國臨時政府成立式は、五色旗なびく北京居仁堂に於ていと厳かに興行せられた。

写真:

写真の(右上)は、式後の記念撮影に係る新政府最高要人達で、左より高凌齋、齊憂元、王克敏、雷壽榮、江朝宗、朱梁、湯崎和、王揖唐、董康の諸氏である。
(左上) 新国旗を掲げて喜ぶ人車。
(右下) 新政府の看板。
(左下) 五色旗なびく市內の一風景である。

北支五省: 河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省

上記の記事では、北京で北支5省全体の新政府が樹立した際の写真ですが、国名として「中華民国」となっています。これは、「中華民国」というの国名は、本来は「北京政府の国名」であり、蒋介石が「北伐」で奪ったものだからです。

歴史の流れを見直すと、蒋介石が「北伐」を行った段階では、南部には「国家」は成立していなかったという結論になります。1928年6月、の蒋介石の「北伐」と「張作霖爆殺」で、北部政府(北京政府)が政府軍の大総統を突如失い混乱に乗じる中、蒋介石は易々と北部から「中華民国」の主権を奪われました。張作霖を暗殺したのは、当然、蒋介石です。自分がやった暗殺を、日本軍がやったと偽り、自分は平然と「中華民国」の代表に納まりました。

その後、蒋介石は「自分が中国の南北政府を統一した」として、首都を北京から南京へ移し、中国全土で独裁を展開してい行きました。そして、9年後の1937年12月、北部政府が日本と共に、蒋介石から「中華民国」を奪回しました。

 

写真拡大ー中華民国の新政府の成立

 

「中華民国」は、清帝国が帝政から共和制に移行した際の「新国家名」であり、蒋介石による「北伐」、「易幟」までは、「中華民国」の政府は北部の北京政府でした。それ以降、蒋介石は「中華民国」の政府は南京の南部政府であるとし、中国全土を支配下に置きました。

通常の軍事独立クーデターであれば、新政府の樹立とともに、国家名も変更されるところですが、北部政府からすれば、蒋介石から「奪回した」という意味で、「中華民国」を維持したと考えます。

 

写真拡大ー北京の新政府の最高要人

 

上記、左より高凌齋、齊憂元、王克敏、雷壽榮、江朝宗、朱梁、湯崎和、王揖唐、董康の諸氏。

 

 

昭和13年3月(1938年3月)発行「歴史写真」から
昭和12年1月(1937年1月)-北支日を趁ふて明朗

記事:

聖戰僅か半歳、而も北支五省の廣大なる地域、今や悉く日章旗の翻るところとなり、 臨時政府を始め、各都市に治安維持會設置せられ、新生支那を進めつつあるのである。

写真:

寫眞の (右) 來る陽春の頃、中華民國臨時政府に依り、新たに大總統に推戴されるとい、元國務總理斬雲鵬氏。
(左上) 北支臨時政府の要人湯爾和氏以下各委員が、一月十六日天津に寺內最高指揮官を訪問したる有樣。

(右下)北京の都に春立ちかへり、北海公園の氷の池に、假裝した 支那娘達がスケートを楽む有様。
(左下)新進官吏の登龍門たる北京新民學院開院式 當日、式場前の祝賀門で、近く多數の俊才が此の校門を出て、新政府に入るであらう

 

写真拡大ー中華民国の北支臨時政府の要人

上記は、北支臨時政府の要人が天津の寺內最高指揮官を訪問した様子です。北京にて、北支5省を統括する臨時政府が発足した証拠です。

★★★

戦後の歴史では、蒋介石がイギリスの完全傀儡政府であったことから、日本が支援した北支臨時政府も、満州国と同様、「日本の傀儡政府」と言われて来ました。しかし、これは大きな間違いです。

イギリスと蒋介石との間には、多額の軍事借款という借金による「金銭支配関係」がありました。日本は、蒋介石から中国全土の奪回に、中国の各都市を巡り「占領」しましたが、日本と北部政府や満州国との間では、軍事借款のような事態はありませんでした。農業や手工業が経済基盤である南部政府とは異なり、北部政府は鉄鋼や原油などの天然資源を財源に持っていました。日本が占領したからといって、北部政府が独立したければ、少数兵力の日本軍などはいつでも追い出せました。傀儡政府である必要も理由もありません。

植民地化政策の5段階を理解していないと、傀儡政府がなぜ起こるのかが理解出来ないため、戦後は、蒋介石に有利なシナリオのまま、北部政府も満州国も、日本の傀儡とされてしまいました。しかし、傀儡政府とは他国の支配下になるのと同じです。当然、軍事借款や政府借款が無ければ、傀儡関係は成立しないでしょう。日本と北部政府の間には、こうした「借金」債務関係はありません

日本はあくまでも、彼らの独立のため、「外国の立場」を利用して、蒋介石政府から「中華民国」奪回の「表の役」を担っただけです。蒋介石政府の内部分裂工作も、日本軍に各都市を占領させていたのも、全て、当時の北部政府(旧北京政府)です。そして、その中心として、最も活躍したのが、満州奉天派の大総統の張作霖の長男であった張学良であったことは言うまでもありません。

日本がなぜここまでの犠牲を払ったのかですが、中国が植民地化されれば、日本も終わりだからです。

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