南京北京新政府樹立の真相3-蒙古連盟自治政府の成立

南京北京新政府樹立の真相3-蒙古連盟自治政府の成立

昭和12年(1937年)12月13日に、南京陥落の翌日、2月14日には、南京自治政府が成立、北京では「中華民国」の北支臨時政府の成立し、また、ほぼ同時に、蒙古連盟自治政府も成立しました。

 

内蒙古の新政府成立(蒙古連盟自治政府)

 

昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」から
昭和12年12月(1937年12月)-蒙古連盟自治政府成立

記事:

赤化の外蒙と、漢民族の國民政府とに挟まれて、あらゆる壓迫を蒙りながら、蒙古人の蒙古を護れと、孤軍奮闘して来た德王の素懷は茲に目出度く達成し、蒙古聯盟自治政府は、正々堂々樹立せられた。

写真:
寫眞の(右上)蒙古の新自治政府成立の歓喜と感謝とに胸高鳴らす德王が、我が部隊の幹部と握手しつある有樣。
(左上)蒙古聯盟自治政府の新看板と、防寒具を着けた衛兵の姿。
(右下)新政府成立記念写真で、前列中央は德王、その右は蒙古軍の驍將李守信將軍。
(左下)勇猛慄悍なる蒙古軍の歩兵隊である。

注)驍將(ぎょうしょう):勇ましい将軍

 

内蒙古独立の真相8- 蒙古大帝国の建国 :https://japan-china-war.com/inner-mongolian-independence-08/

 

写真拡大ー蒙古の新自治政府成立

 

東西に長い内蒙古は、東域は満州民族と共に「満州国」として、蒋介石政府からは分離独立を果たしました。内蒙古西域については、徳王が日本と満州国と共に分離独立を果たしました。「歴史写真」には、政府の成立年月日の記載はありませんが、昭和12年(1937年)12月であったことは確かです。

日本が、中国で蒋介石と戦った理由は、中国(周辺民族国家も含む)が植民地化されれば、日本も当然植民地になるからです。日本だけが戦っていたのではありません。中国全土が、蒋介石という「植民地危機」と戦ったのです。当然、当時の中国共産党も同じ立場でした。イギリス勢力を最も排斥したかったのは、ソビエト(ロシア)の支援を受けていた中国共産党だったでしょう。

蒙古が蒋介石政府に勝利出来た理由も、蒙古軍や日本軍が強かったのではなく、蒋介石政府軍が内部分裂、内部崩壊していた事が原因です。張学良は、「満州の裏切り者」の汚名を着て、蒋介石の腹心になり、反蒋介石勢力を、政府内、軍部内に形成していったのです。西安事件では、表向きは、蒋介石政府との和睦に見えて、実際には、張学良が、中国共産党と旧北京政府勢力を同盟させたのです。

 

写真拡大ー蒙古連盟自治政府の最高要人

上記の写真の中央は、蒙古の徳王です。その右は蒙古軍将軍の李守信。徳王は、中国の植民地化を進めるイギリスの傀儡であった蒋介石と敵対し、日本と共に蒙古を守りました。チンギス・ハーンの末裔ですので、蒙古の植民地化は絶対的に許せなかったでしょう。

前年昭和11年(1936年)11月の綏遠事件から始まる、蒋介石政府軍との「軍事紛争」を経て、昭和12年(1937年)12月に、蒙古連盟自治政府を樹立し、内蒙古の西部地域の分離独立を達成しました。これにより、実質的には、「蒙古大帝国」が建国されたといえるでしょう。

 

 

昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」から
昭和12年12月(1937年12月)-事変下陸軍始観兵式の壮観

記事:

這次事變に當り、世界無敵の威容を彌が上にも中外に宣揚したる皇軍の、新春恒例陸軍始觀兵式は、良くも大元帥陛下の親臨を仰ぎり、在京各部隊一萬七千の將兵参加し、一月八日午十時より、代々木練兵場に於て舉行せられた。此日、大元帥陛下には、 非常時局を思召されて特に御軍裝 た召され行幸あり、戰勝の意氣正に天を衝く諸兵の勇姿を審さに御親閱あらせ給ふた。
写真:
寫眞の右上は、當日大元帥陸下、御愛馬『白雪』 に召させられ御閲兵の御有樣。
左上は當日 参加したる陸の荒鷲部隊 百八十機中の一部。
右下は始めて盛儀を拜觀し驚異の眼を瞶る來朝蒙古人家達
左下は戰車隊の分列式である。

 

写真拡大ー蒙古人の来日

昭和12年(1937年)12月に、蒙古で新政府が樹立されたため、昭和13年(1938年)1月に、蒙古政府の代表者が日本を訪問したようです。空軍の飛行パレードもあり、一行は、代々木練兵場(現在の代々木公園一帯)で行われた新年の始観兵式へ参加されたようです。

内蒙古と日本の関係については、現在も殆ど知られていませんが、当時は日本とは同盟国であり「同志」だったといえるでしょう。日本人は、蒙古斑がありますので、民族的にも繋がりの深い方々です。

 

★★★

戦後の歴史では、蒋介石がイギリスの完全傀儡政府であったことから、日本が支援した北支臨時政府も、内蒙古の自治政府も、満州国と同様、「日本の傀儡政府」と言われて来ました。

しかし、これは大きな間違いです。

イギリスと蒋介石との間には、多額の軍事借款という借金による「金銭支配関係」がありました。日本は、蒋介石から中国全土の奪回に、中国の各都市を巡り「占領」しましたが、日本と北部政府や満州国との間では、軍事借款のような事態はありませんでした。農業や手工業が経済基盤である南部政府とは異なり、北部政府は鉄鋼や原油などの天然資源を財源に持っていました。日本が占領したからといって、北部政府が独立したければ、少数兵力の日本軍などはいつでも追い出せました。傀儡政府である必要も理由もありません。

植民地化政策の5段階を理解していないと、傀儡政府とはなぜ起こるのかが理解出来ないため、戦後の蒋介石に有利なシナリオのまま、当時の中国で日本が支援した政府は、全て、日本の傀儡とされてしまいました。しかし、傀儡政府とは、他国の支配下になるのと同じです。当然、軍事借款や政府借款が無ければ、傀儡関係は成立しません。日本と当時の満州・中国の間には、こうした「借金」債務関係はありませんでした。

日本はあくまでも、彼らの独立で、「外国の立場」を利用して、蒋介石政府から「中華民国」の奪回の「表の役」を担っただけです。蒋介石政府の内部分裂工作も、日本軍に各都市を占領させていたのも、全て、当時の北部政府(旧北京政府)です。そして、その中心として、最も活躍したのが、満州奉天派の大総統の張作霖の長男であった張学良であったことは言うまでもありません。