南京北京新政府樹立の真相1-南京自治政府の成立

南京北京新政府樹立の真相1-南京自治政府の成立

昭和12年(1937年)12月13日に、南京の中山門の突破と同時に南京は陥落し、翌日の12月14日には、南京市の有力者により、南京自治政府が成立し、同日12月14日、北京では「中華民国」の臨時政府の成立しました。蒋介石政府の首都であった南京を日本軍が陥落し、蒋介石政府が壊滅出来たため、ようやく、北京政府が、蒋介石から「中華民国」を奪回しました。また、この時、蒙古連盟自治政府も成立しました。

 

南京での新政府成立(南京自治会)


昭和13年4月(1938年2月)発行「歴史写真」から

昭和12年12月(1937年12月)-支那事変写真 南京に春立ちかえる

記事:
(右上)上海に於ける日支両軍戦闘開始以來、力戦奮闘五ヶ月、随所に頑敵を残滅して、遂に敵首都南京を占領したる皇軍将士の喜悦ば、正に何ものにも譬へがたきものがあり、今しも近く戦勝の新春を迎へんとして、兵士等は掛声勇ましく餅を搗きつあるのである。

(左上)皇軍の南京占領と共に、同市の支那側有力者間に於ては、直ちに南京自治政府設立の議起り、日ならずして是が成立を見たのである。写真は、多くの市民達、手に手に日の丸の旗を翳し、新政府成立式場に向いつつある有様

(右下)南京の元旦、海軍部前に於ける我が陸戦隊の宮城遙拝式。

(左下)戦勝に心も勇む正月が近づき、日の丸の鉢巻姿も勇ましく陸戰隊の餅搗きである。

 

「南京攻略の真相」でもご説明の通り、南京の攻略直後に、南京に一般市民の方々が手に手に日本国旗を持って、新政府成立の祝賀会場へ向かうほど、日本軍は南京の皆様に歓迎して頂いてました。もちろん、それだけ、蒋介石の統治が酷かったという証明といえます。

上海の行軍パレードの後、日本軍の後発隊が、避難民の食料などを上海方面から運んで来ていたかも知れません。中国では2月が正月ですが、日本では1月ですので、直後から、餅つきなど正月を迎える準備に入っていたようです。

以下の写真は、日本兵による警備か誘導ですが、日本兵はライフルも日本刀も持っていないようです。本来であれば敵軍であるはずの日本軍の兵士が、南京入城直後の警備でここまで無防備で、これだけ大量なの人々の側に立っていられる状況だったのです。 日本軍がもし南京市民を虐殺や惨殺していたとすれば、このような状況は生まれるはずはありません。

上記の写真は、蒋介石が、戦後、最も隠ぺいしたい一枚だったかも知れません。自分の嘘が全部発覚してしまいますから。

 

戦後の歴史では、蒋介石がイギリスの完全傀儡政府であったことから、日本が支援した北支臨時政府も、満州国と同様、「日本の傀儡政府」と言われて来ました。しかし、これは大きな間違いです。

イギリスと蒋介石との間には、多額の軍事借款という借金による「金銭支配関係」がありました。日本は、蒋介石から中国全土の奪回に、中国の各都市を巡り「占領」しましたが、日本と北部政府や満州国との間では、軍事借款のような事態はありませんでした。農業や手工業が経済基盤である南部政府とは異なり、北部政府は鉄鋼や原油などの天然資源を財源に持っていました。日本の資金など無くても、自分達で戦争の資金調達は可能であり、軍事兵器も自分達で製造が可能でした。また、日本が占領したからといって、北部政府が独立したければ、少数兵力の日本軍などはいつでも追い出せました。傀儡政府である必要も理由もありません。

上記は、植民地化政策の5段階を理解していないと、傀儡政府とはなぜ起こるのかが理解出来ないため、戦後は蒋介石に有利なシナリオのまま、北部政府も満州国も、日本の傀儡とされてしまいました。しかし、傀儡政府として、他国の支配下になるのであれば、当然、軍事借款や政府借款が無ければ、傀儡関係は成立しないでしょう。日本と北部政府の間には、こうした「借金」債務関係はありません

日本はあくまでも、彼らの独立で、「外国の立場」を利用して、蒋介石政府から「中華民国」の奪回の「表の役」を担っただけです。蒋介石政府の内部分裂工作も、日本軍に各都市を占領させていたのも、全て、当時の北部政府(旧北京政府)です。そして、その中心として、最も活躍したのが、満州奉天派の大総統の張作霖の長男であった張学良であったことは言うまでもありません。