北京南京新政府樹立の真相
1937年12月14日は、日本軍による南京陥落の翌日です。この日、南京では、南京市民による「南京自治委員会(新政府)」が成立し、北京では「中華民国」の「北支政府」が樹立しました。
南京攻略は1937年12月10日から1937年12月13日の4日間で行われ、1937年12月13日の午前3時に南京の中山門を突破し、午前11時には陥落しました。これにより、南京に首都を置いていた蒋介石の政府は完全に壊滅したため、翌日、南京、北京、両方で新政府が樹立しました。北京では、蒋介石からの「国家」奪回の達成となりました。中国の南北地域が、同時に、蒋介石の「統一政府」から分離独立を宣言したのと同じ意味を持ちます。
戦後の歴史では、「日本が中国を侵略した」から「アメリカが日本を止めるため戦争した」結果、日本が惨敗した。「日本が全て悪い」という見解で歴史のシナリオが作られています。南京陥落の翌日に、南京の中国人が臨時政府を起こした話は、歴史では全く知られていないでしょう。ですが、本当の歴史は、この時点で、中国のほぼ全域で、中国人の民衆が、蒋介石政府から分離独立を求めていたのです。ですから、極めて少数の日本軍が圧勝だったのです。当初は北部の満州民族や蒙古民族だけでしたが、結局は、南部の漢民族の多くも、蒋介石からは離反しており、実質的に、日本側に付いていたということです。
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