日本軍の圧勝の真相7-太原の陥落
昭和12年(1937年)9月に、北京から、保定、石家庄へ進軍し、そこから、西方の太原を目指して進軍を続けました。昭和12年(1937年)11月には、蒋介石政府軍の主要軍閥の一つを率いていた閣錫山の本拠地である太原を陥落します。
太原への進軍
昭和13年1月(1938年1月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年11月(1937年10月) 一 山西省席巻の行軍
記事:
敵將閣錫山が、多年に亘りその全能力を盡して經營し、一方又あらゆる近代的防備を施し難攻不落を誇りたる山西省の首都太原を目指し、猛進撃を行へる我が構鏡は、同蒲線に沿へる敵の要地を矢
継早に占職し、一方正太線に沿ひ西進中の友軍と相呼慮して、十一月上旬既に全く太原攻撃の體勢 を整へ、同月八日途に是を占據した。
写真:
寫真は太原攻擊前に於ける皇軍活躍の有機で、
(右)は太原前線の最重要據地折縣の城壁に、梯を掛けて突入す る我が勇敢なる兵士達。
(左上)原平鎮附近の山腹に皇軍穴居の陣。
(左中)同地附近に敵が遺棄した案山子兵。
(左下)正太線に沿ひ進撃中の〇〇部隊
太原という都市は、中国の主要な都市の一つです。蒋介石軍の大軍閥である閣錫山の本拠地です。日本軍が普通に戦って勝利など絶対に不可能ですが、ここでも圧勝しました。張学良と同志の長年の内部工作の賜物としか言いようがありません。
昭和13年1月(1938年1月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年11月(1937年10月) 一 皇軍堂々太原に入城す
記事:
待ちに待たれた山西省の首都太原城の名落は、十一月八日の午前九時三十分資島部隊の東側城壁占領、續いて大場部隊の北側城壁占據に依て目出度く達厳せられ、敵の將師閣錫山が、多年築き上げた北支人民戦線派の策源地も、遂に皇軍無敵の鋭鋒に あはれ果敢なく陥落するところとなった。
写真:
寫真の(右上)我が〇〇部隊堂々太原に入城す。
(右中)城壁上より幾敵を播射す。
(右下) 太原に向って進撃中 の〇〇部隊。
(左)城壁上の萬歳である。
写真拡大ー日本軍の太原入城
写真拡大ー日本軍の万歳
こちらも、圧勝というより、戦わずして入城、即、陥落、占領だった証拠です。正に、孫氏兵法極意、「戦わずして勝つ」という所でしょう。
昭和13年1月(1938年1月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年11月(1937年10月) 一 敵将閣錫山の本拠太平城を占拠す(其他)
記事:
太原は山西省の首都にして人口四十萬に近く、敵將閻錫山が人民戰線の策源地として夙に數千萬元を投じ、軍事に產業に經營大に力め、加ふるに転嫁無双の天嶮を周圍に控へ、難攻不落の要害を以て誇りたる處、而も我軍、北より東より幾多の峻嶮を突破してひた押しに押し進むや、さしもの梟雄閻錫山も抗戰に利なきを知り、逸早くも逃走し、太原城は難なく我軍の占據するところとなった。寫眞は同城壁城の萬歳である。
上記の記事では、日本軍を前に、閣錫山が軍隊を引き連れ逃亡したことが記載されています。日本軍は確かに少数精鋭でした。しかし、どう足掻いても、兵力規模、軍事兵器の規模で、閻錫山の足元にも及ばなかったのが実情です。
また、以下の写真は閣錫山軍から奪った「山砲」ですが、こうした兵器も、閻錫山は太原に置いたまま逃げています。日中戦争で日本が各地を巡っていた際、蒋介石政府軍は、こうした武器や兵器を置き去りにしていました。日本軍が全て確保しました。
こうした兵器は、蒋介石の中国追放後、後に樹立した新政府で結成された軍隊に転用されたようです。閻錫山(蒋介石政府軍)が、自ら武器や兵器を置いて、敵前逃亡することで、戦闘も無く、無傷のまま、それも、タダで軍事兵器が入手出来ていたわけです。非常に賢い戦略だったといえます。
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日中戦争での日本軍の行軍と本当の歴史については、必ず、訂正されるべきと思います。このサイトでは、特に日本軍の行軍に関して、出来る限り多くの写真を紹介したいと思います。
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