張作霖爆殺事件の真相3-北京無血開城

張作霖爆殺事件の真相3-北京無血開城

1928年6月4日の張作霖列車爆殺事件の後、張作霖という中心的存在を失った北京に、蒋介石政府軍が続々と入城して行きます。張作霖の息子である張学良、側近や周辺の政府要人、日本もですが、張作霖の奉天への帰還により、北京政府と蒋介石の南京政府とが平和裏に統合し、友好的な協力体制に至ると考えていた矢先、手の平を返すが如くの仕打を受けたと同然の展開になったといえます。蒋介石を信用したのが間違いであったという事ですが、北京政府としては、南部の蒋介石政府に対して、北京の開城を約束した後ですので、不意打ちを突かれ、どうしようも無く、降伏せざるを得なかったといえます。

昭和3年8月(1928年8月)発行「歴史写真」から
昭和3年6月(1928年6月)支那全土に青天白日旗翻る

記事:孫逸仙の遺志を奉じて前後数年間北伐の一念に燃えつつ幾たびか北上の軍を動かした国民軍総指令 蔣介石氏及び馮玉祥、閻錫山諸氏今回の決死的進撃は事每に功を奏し、所謂の燎原の火の勢いを以て 忽ち北京に迫り來った爲め、さしもの飛將張作霖氏も遂に敵せずと見て北京た敵手に明渡すこととなしたる爲め、國民軍の各部隊は6月上旬より相次いで入京し、同月十一日には軍の闘将閻錫山氏も、新たに京津衛戍司令という厳めしい肩書を有って北京に入り、超えて7月3日には総司令蒋介石氏も夫人同伴にて入京し、前後久しきに渡った支那の動乱も茲にひとまず鎮定を見るに至り、四百余州は挙げて、青天白日旗の下に何者か清新溌剌の氣を呼ぶこととなった。

写真:いづれも國民軍北京入城後の情景を示すもので、前の頁の右は第三集團軍前敵総指揮商振氏所属の第十六師團が六月八日康安門より入城しつつある有様

右上は張作霖大元帥退京後成立したる京師臨時治安維持會の代表者で右王士珍市、左熊希齢氏。同下國民軍便衣隊の北京入り。後の頁の右上六月十一日閻錫山氏の入京。左小学児童の國民軍歓迎。同じ下青天白日旗に彩られたる北京の市街である。

京師臨時治安維持會久長王士珍氏 / (右)副會長熊希齢氏(左)

青天白日旗に彩られたる北京の市街

上記の太陽の様なマークの旗が、南部の蒋介石政府の政府旗であった青天白日旗です。これが、張作霖の列車爆殺後、すぐに北京の街に翻ったのです。平和的な南北政府統一という目的であったとしても、北京政府の関係者や、何より張学良にとっては、相当に悔しい出来事であったといえます。

六月十一日閻錫山氏の入京

この蒋介石の勝利には、元々北京政府の人間であった馮玉祥と閻錫山の軍事的な支援が大きかったといえます。張作霖は奉天軍を率いていましたが、この2名の率いる軍隊を合わせれば、戦力的に太刀打ち出来なかったかも知れません。これは、現在の歴史では特に語られていませんが、北京政府の立場から見れば、馮玉祥と閻錫山が、蒋介石側へ寝返ったということになります。寝返ったとしても、南北での内乱を収束し、中国の統一政府を達成すべきとの思いからだったでしょう。この時は、蒋介石の本当の目的には全く気が付かなかったかも知れません。

國民軍、第十六師團が六月八日康安門より入城する様子

北京での市街戦を避ける為とはいえ、全く戦わずに、敵軍に居城を明け渡すことになったといえます。張作霖が無事に奉天に帰還していたら、それも「平和解決」として喜べたかも知れません。しかし、張作霖の爆殺事件から4日も経たず、北京の街は、南部の蒋介石政府の色に塗り替えられようとしていました。

 

これを北京で見ていた張学良はどんな思いだったのでしょう。

 

 

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