張作霖爆殺事件の真相4-北伐完了報告

張作霖爆殺事件の真相4-北伐完了報告

6月4日の張作霖の列車爆殺事件の後、蒋介石軍が続々と北京に入城し、北京政府の政府旗は蒋介石軍の青天白日旗に塗り替えられました。北京は、江戸城と同様に、無血開城に至ったのです。これを受け、蒋介石は「北伐完了」とし、当時、孫文の亡骸が安置されていた北京の碧雲寺にて、「北伐完了」の報告を行います。蒋介石は、「孫文の意志を継いで北伐を実現した」のですから、北部の北京政府を降伏された後は、当然、孫文に対して「北伐完了=南部政府の勝利」を報告し、それを国内外に大々的に知らしめるため、「北伐完成の報告祭」を執り行ったのです。

昭和3年9月(1928年9月)発行「歴史写真」から
昭和3年7月(1928年7月)支那国民軍戦没者追悼と孫文霊廟革命の報告

記事: 支那南方派の四巨頭、蒋介石、馮玉祥、閻錫山、李宗仁、四氏等が所謂臥薪嘗胆の甲斐ありてその大目的たる北伐が完成せられ大體に於いて支那の統一も達成せられたるに就き、先ず七月九日には南口の戦いに陣没したる国民軍の英霊に対する招魂祭がいと盛大に行はれ、蒋、馮、李の書く総司令を始め南方派のおもなる将士多数参列した。写真の右は該追悼会式場の光景である。尚又同月六日には北京の西郊香山碧雲寺の高塔に納まった支那革命の先烈孫文の霊に対し北伐完成の報告祭が執行せられ、蒋、馮、閻、李の四将軍を始め参列者五百俆名、主祭者蒋介石氏の祭文朗読あり、満場の将士感極まって悉く涙した、写真の左、当日参列の右より李、蒋、馮、閻の四氏である。

臥薪嘗胆(がしんしょうたん):将来の目的や成功のために長い間苦心、苦労を重ねること

上記は、孫文の霊廟前にて、蒋介石以下、蒋介石政府の要人が北伐完了の報告をした際の記事です。馮玉祥、閻錫山は、元々は、北京政府の出身です。蒋介石に寝返ったと言えますが、辛亥革命以降、政府が南北に分割している状態が続いており、逸早い南北政府統一に向けては、南部の蒋介石を中心とした体制での「新政府」を目指そうとしたのかも知れません。

北部の北京政府は、皇帝の退位後も、朝廷は継続され、絶対王政は終焉したものの、共和制を採用し、実質的には「旧体制」のまま政府が継続していたと考えられます。そのため、馮玉祥は「北京政変」を起こし、清国の朝廷を終焉に追い込み、孫文が提唱していた「民主政府」を北部でも実現したかったともいえます。ところが、孫文は急死、その後は、蒋介石が「北伐=南北内戦」に向かって動き出していきます。当初の意図では無かったものの、「北京政変」を起こした手前、今更、北部の北京政府へは戻れず、中国の統一政府実現に向けて、南部の蒋介石の政府側で、北部の北京政府軍と対立することになってしまったというのが実情ではないでしょうか。

この「北伐完了」は、確かに、孫文が目指した「中華民主革命」と「中国の統一政府」の達成に至ったことを意味したといえます。北京政府は終焉し、蒋介石の南京政府に吸収されて行きました。北部の北京政府では5つの民族を表す「五色旗」が政府の旗として使われており、一方、南部の蒋介石率いる政府では晴天白日旗が使われていました。1928年6月の北京無血開城では、蒋介石軍の入城と共に青天白日旗が北京に一斉に掲げられました。この事により、南部が北部を統合する形での、中国南北統一が実現したといえるでしょう。

その後、12月末までに、中国統一政府内での満州地域の位置づけについて等、張学良と蒋介石の間で協議が行われたようです。ここで張学良が折れなければ、再度、南北での内戦が再開してしまいます。南北戦争の再開は、イギリスなどヨーロッパ諸国による中国の植民地化危機に面した状況では、何としても避けたい事態であったといえます。

結局、張学良率いる北部の満州族政府(旧北京政府)は、蒋介石率いる漢民族政府と、協調路線を取り、南北政府間での同盟関係に至ったと考えられます。また、この「同盟関係」により、元々北京政府が管轄していた満州地域及び北部地域(北支)については、引き続き、張学良が主軸となって管理統治する形で、南北の折合いを付けたのでしょう。

こうして、北京無血開城から約半年の期間を経て、満州地域も含めての中国南北統一に至ったといえます。北部勢力は強力な指導者であった張作霖を失い、内部分裂の可能性もあり、英米支援により強力な軍事力を持つ蒋介石に対抗する力はなく、馮玉祥、閻錫山が蒋介石側に付いていることから、張学良の奉天軍だけでは、勝利する見込みは無かったといえます。結果、張学良の判断として「同盟関係」以外に選択肢は無かったといえます。更には、南北政府同盟であったとしても、実質は、北部の張学良が、南部の蒋介石の傘下に入る状況になったといえます。張学良にとっては、非常に屈辱的な事態であったのでは無いでしょうか。

これは、北京政府が南京政府に吸収されたという事であり、かつて数百年間に渡り支配層であった満州民族が、被支配層の漢民族の支配下に入ったのと同じ意味になります。実際には、北部の北京政府が譲歩したのが実情ですが、歴史的には、これが、北部が「敗北」したと言われる理由であり、また、張学良が蒋介石と協調し、日本に対立していたというシナリオが生まれる理由です。

そして、その北部の「敗北」の象徴的な事態として、1928年12月29日、易幟(えきし)と呼ばれる、北部の政府旗が、南部の政府旗に、正式に変更制定される事態が起きました。しかしながら、こうして、北京の無血開城から約半年を経て、中国の南北政府の統一が達成されることになりました。

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