辛亥革命3-大政奉還と江戸城無血開城
大政奉還と江戸城無血開城
日本史では、江戸幕府を終焉させ、明治新政府を興したのは、薩長同盟を主軸とする反江戸幕府派の人々だと理解されいると思います。ですが、実際に、江戸幕府を終焉させたのは、最後の将軍であり、大政奉還を決断した徳川慶喜です。1968年1月3日、明治維新政府(臨時政府)の発足した後、1968年3月から4月に掛けて、江戸幕府(旧政府)の首都である江戸にあった江戸城(政府内閣官邸)の明け渡しを行っています。これは、旧政府側となった江戸幕府の勝海舟が、江戸城の明け渡し交渉を行っています。新政府側からは、西郷隆盛が交渉役であったとされています。
当時は、日本という国家がヨーロッパ諸国の植民地化の危機に直面しており、明治維新政府(臨時政府)の樹立により、イギリスとフランスの脅威は一旦は抑えれたものの、国内では戊辰戦争が勃発するなど、依然として、国内の内乱危機が続いていました。そうした事態を理解していた江戸幕府(旧政府)としては、新政府下での逸早い政権安定を提案するのは当然です。そのため、江戸城という江戸幕府の象徴でもあり「国家文化遺産」とも言える場所を、江戸幕府(旧政府)が明治政府(新政府)に自ら明け渡すことで、国内での旧幕府派の内乱の動きを抑え、新政府体制への移行を進めたいと考えていたと言えるでしょう。
朝廷(天皇家)も、国家危機の事態を深く受け止め、大規模な内乱勃発を回避するため、わざわざ京都から江戸(東京)へ居城を移す決断をされたと言えるでしょう。一般的に、こうした政権交代の場合、新政府軍の動向としては、旧政府勢力が復活しないように、旧政府の首都の破壊や、統治下の民衆の虐殺や奴隷化などが起きることが多いと言えます。明治維新は、主に武士階級が中心となった革命でしたが、民衆への軍事攻撃に発展した場合は、今度は、民衆対民衆の内乱に発展してしまいます。
もちろん、日本の植民地化を目論んでいたヨーロッパ諸国からすれば、民衆同志、当時は、国として別れていましたので、小国家同士の内乱を引き起こすことが植民地化への重要な戦略でした。そこで、明治新政府軍に、旧政府(江戸幕府)の首都と民衆を攻撃させないために、天皇家が旧政府の首都を継続使用する意思を示したということです。天皇家が江戸に下れば、薩長など新政府軍も、江戸を攻撃出来なくなります。更に、ヨーロッパ諸国、特にイギリスとの関係が依然として強かったであろう明治新政府に対し、イギリスの影響を断つという意味でも、朝廷(天皇家)が主権の中心になる必要がありました。
江戸城の無血開城は、現在の日本史では、徳川江戸幕府が弱体化した結果とか、薩長新政府に負けたからという様な見解で理解されていますが、当時の国家危機の深刻な事態を考えれば、「勝ち負け」とかいう単純な話では無く、国家危機の回避を目的とした重要な国家戦略であったと言えます。残念ながら、新政府側の無知な人々により、江戸城は消失してしまいました。その結果、新政府の首都で、本会議場など国家運営にとって基本的な建築物から作り直しをすることになりました。政権混乱期でただでさえ財政逼迫の状況で、こうした大規模な施設の建設費用は財政を圧迫します。これも、植民地化政策の一環として、対象国の財政ひっ迫を招くのが手法です。
日本は周辺を海に囲まれた地理環境から、そうした事態は免れましたが、政権の混乱期に乗じて、海外勢力から軍事攻撃されれば一溜りもありません。こうした経緯から、明治政府発足以降、日本は富国強兵への道を直走ることになったといえます。
結論として
中国の南部で辛亥革命を起こしたのは孫文。中国北部で清帝国を無血で終焉させたのは袁世凱。日本の南西部で明治革命(反政府クーデター)を起こしたのは坂本龍馬。日本の東北部で江戸幕府を終焉させたのは徳川慶喜ご本人ですが、江戸城の無血開城など、勝海舟が江戸幕府の無血終焉の指揮を執っていたと言えます。
孫文も袁世凱も、当時の中国の要人も、日本とは親交が深く、明治維新については高く評価していたと言われます。日本が先に政権変遷を成功させたため、「手本とした」となっているようです。しかし、当時のヨーロッパ諸国による植民地化政策に対しての「抜本的な対抗策」を考えた場合、「国内での内乱を回避する」という方向性はどこでも同じです。辛亥革命も、結果的に、日本の明治維新を「手本」としたとされるのでしょう。