第二次上海事変の真相6ー上海での市街戦

第二次上海事変の真相6ー上海での市街戦

日本軍は、8月23日より、陸軍部隊を中国本土へ上陸させましたが、その後、。

満州事変の半年後、第一次上海事変でも「1月に及ぶ軍事紛争」が起きましたが、第二次上海事変での蒋介石政府軍の一方的な攻撃は目に余るものがあり、また、停戦調停に応じるどころ、大軍を集結させ、戦闘姿勢を崩さなかったため、3カ月に及ぶ紛争となりました。

第二次上海事変から、日本軍の上陸に至る経緯については、現在の歴史では殆ど正しく理解されていません。一般的歴史理解では、「日本が、自国の利益のために、中国を侵略する為、上海へ上陸した」ことになっています。これは、当然、大きな間違いです。蒋介石政府(中華民国)からの、この事変は、中国南部地域の分離独立が目的であり、蒋介石政府を倒すためでした。また、実際に、多くの犠牲者が出る「被害」に遭っていたからこそ、上海上陸という結果になったのです。

 

昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月)- 上海の市街戦に獅子奮迅の陸戦隊

記事:

去る八月十二日以来、数十倍の大敵を相手に、寡兵克く戰い、赫々たる武名を世界に轟かしつつある我が海軍特別陸戰隊の奮戰振り。

写真:

其の(右上) 上海〇〇力』に於て、砲火に焼け落ちた民家の窓に銃を構へ、間近に見ゆる敵陣地に對し、一齊射擊た加へつつある有樣。(左上)四川路の一地點に、毒ガス防具を裝いたる陸戰隊員等が、土嚢の陰に身を潜め、突擊の機會た窺いつつあるところ。
(右下)鞄子路の敵陣地近く、裝甲車た先立て、 進擊せんとする我軍。
(左下)バスケル路附近の敵陣地に火焰た潜りて突擊せんとする光景である。

 

上海では、蒋介石政府軍は、日本軍の数十倍の兵力でした。上海市街での戦闘は、蒋介石政府の正規軍(本当の敵軍)も参戦しており、双方に大激戦となったようです。北部での「軍事衝突」の記事と異なり、過激な実戦が繰り広げられていたことが写真からも読み取れます。第一次上海事変の時と同様、軍隊規模の余りに小さい日本軍が、戦況を少しでも有利に展開するには、自分の身を隠し易い「市街地」が適していたといえます。市街戦であれば、少数の兵士がゲリラ戦のように動く事が出来ます。大量に兵士が来ても、多すぎれば「通り」には隠れるところがありません。

一方、上海上陸の目的は、「蒋介石政府を潰滅する」ことです。必然的に、蒋介石政府の首都である南京を攻略する必要があります。上海で「大きな軍事衝突」が起きれば、南京方面その他からも、蒋介石政府軍が上海へ集結して来るでしょう。南京攻略は、12月初旬でしたが、上海での「軍事衝突」は、その約1カ月前の11月14日頃でほぼ収束しています。上海での「軍事衝突」は8月13日以来、3か月継続していました。その間、市街地だけでなく、周辺も含めて全て、蒋介石政府軍の掃蕩を行っています。掃蕩というより、実際は、「当初のお打ち合わせ」通り、「武器を置いて逃走」させていました。3カ月継続することで、上海周辺に集結した政府軍の「反蒋介石派」は、ほぼ全員、軍隊から離脱させることが出来たのではないでしょうか。12月の「南京攻略」の際には、南京の防衛能力は著しく下がっていたことでしょう。

 

昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月)- 力戦奪闘克く頑敵を掃蕩しつつある皇軍

記事:

上海包圍の體勢を以て、我が海陸軍に刃向ふ支那中央軍の總兵力は約四十萬と稱せられ、随所に凄絶悲愴なる激戰を展開しつつ、而も我軍は克く此の頑敵を掃蕩して、逐次前進しつつあるのである。

写真:

寫眞の(右上) 我が砲彈に壊滅したる民家の間に、敵の敗残兵ん蹴散らす陸戰隊。
(左上) 友那 側の重要地劉家行の激戰に、完全に敵た制壓、今や突擊に移らんとしつつある我が〇〇部隊。
(右下) 同じく敵の要地羅店鎮附近の戦いに、突擊又突擊の淺間部隊。
(左下) 劉家行の敵陣地深く、砲煙濠々たる中を匍匐して、突擊の機を狙ふ我軍である。

蒋介石政府軍は約40万人の総兵力だったようです。日本軍の十数倍とある通り、日本軍は全域で2万5千~3万程度の兵力しかありませんでした。上海では、市街地でゲリラ戦のような状況だったでしょう。

 

昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月)- 廃墟宛らの上海(上海方面)

記事:

戰火渦巻く上海、晝となく夜となく打ちつ づく砲彈、爆弾の炸裂に、さしも豪華を誇りれる東洋一の國際都市上海も、今は無殘に破壊し盡されて廢墟宛らの惨状である。

写真:

寫真の(右) 大震災の東京を想はせるが如く倒壊したる家々の間を行く我が歩兵
(左上) 廢墟の町の裏通りをクリークに沿うて 進む我が戰車。
(左中) 敵空軍の爆弾に依て、むごたらしくも破壊せられし東ブロード・ウエイの民家。
(左下) 去る八月下旬以来、我が上陸軍と敵軍との間に、凄愴極まる激戦の交はされし呉淞鎮市街の惨状である。

上海での軍事紛争は3か月間続きました。日本軍と蒋介石政府軍の戦いは上海全域に拡大し、各地で相当な被害が出たようです。少数部隊の日本軍は、上海の市街地のあちこちに分散し、「ゲリラ戦」のような状態になっていたことから、蒋介石政府の空軍は、家々の間に潜む日本兵を攻撃する為、「一般民家へも激しい空爆」を繰返していたようです。

中国での戦争では、蒋介石が行った悪行は全て日本軍の仕業になっていますので、上海への空爆も日本軍がやったような印象になっていると思います。しかし、これは都市部でゲリラ戦を展開していた日本軍ではありません。ゲリラ戦を展開していた日本兵を掃蕩するために、蒋介石政府軍が空爆を繰返したのです。もちろん、これに日本軍の航空隊も出動し空中戦もありましたので、この写真に写るような「破壊状況」があちこちで起きたといえます。

 

昭和12年12月(1937年12月)発行「歴史写真」から
昭和12年10月(1937年10月)-廃墟の街を獅子奮迅

記事:

海陸空三方よりの猛撃に、完膚なきまでに破壊し盡された上海の敵陣地、かくて 廢墟宛らの街路を縫つて我軍の猛進は績 けられる。

写真:

寫眞の(右 上) ハスケル路に於ける敵の堅壘三段陣地に對し我が土師部隊の猛攻撃。
(左上) 抜劍の隊長を先頭に、威聲を奉げて敵陣に殺到する陸戰隊。
(右下) 敵の砲彈落下の中を物ともせず、突撃又突擊の我が勇士。
(左下) 虹江路の附近、家から家への抜け穴を進みゆく我が兵である。

注)獅子奮迅 :ししが荒れ狂ったように、すばらしい勢いで奮闘する様子 / 壘:とりで

上記は、敵陣地を破壊した写真ですが、日本軍は、極めて少数であり、軍事兵器も少なく攻撃は蒋介石政府側の軍事司令部や軍事基地や飛行場など、相手の攻撃を効率よく封じる戦術に出ていました。 上記の写真の様に、民家を爆撃しても、爆弾と燃料の無駄になるだけで、蒋介石政軍への打撃にはなりません。また、市街地や一般人の民家へ攻撃し、外国人の犠牲者が出れば、それを理由に、欧州諸国が蒋介石政府側に付き、日本に対し、宣戦布告する事態も想定されます。日本軍の空爆は、軍事拠点に絞る必要があったともいえます。

 

昭和12年12月(1937年12月)発行「歴史写真」から
昭和12年10月(1937年10月)- 堅壘、白壁の家を爆破す

記事:

上海羅店鎮の前面、白壁の家は、我が猛攻撃に微動だも示さなかったが、去る九月二十三日唐澤隊長の率ゆる決死隊に依て、戰史に稀なる坑道爆破作業が敢行せられ、さしもの堅壘忽ちにして我軍の占據するところとなった。

写真:

寫眞の(右上)白壁の家の内部の陣地。
(中上)白壁の家に突入、壮烈なる戦死を遂げし澤本隊長。
(中下)殊勲を樹てて今は亡き唐澤隊長。
(左上)同じく内部の陣地で二つのトーチカと塹壕。
(右下)爆破されたる白壁の家の外観。
(左下)白壁の家の爆破見取り図

上記は日本軍が攻撃した、蒋介石政府軍の軍事拠点です。「堅壘」とありますので、相当に強固な砦(とりで)だったようです。

 

蒋介石政府軍が上海の市街地を空爆した理由

蒋介石政府軍は、8月14日に上海の繁華街へ空爆を繰返したように、上海の一般民家も含めて爆撃を繰返しました。これは、市街戦で、極めて小規模であった日本軍が、通りのあちこちに分散し、ゲリラ戦のような状態になっていたからですが、蒋介石政府軍の空軍(=反蒋介石政府派)は、それを「表の理由」として、上海の街を徹底的に破壊したと考えます。

当時の上海は、多くの外国租界(外国人の居留地)がある中国最大の国際都市でした。欧米諸国にとっては、中国との対外貿易の中心拠点でした。そのため、この都市を破壊すれば、欧米諸国にとっては、中国での貿易拠点を失うのと同然になります。軍事紛争が終結しても、都市部の復興には相当な時間が掛かります。その間、中国との貿易が滞れば、十分な経済打撃になります。欧米諸国、特にイギリスやフランスは「当時の中国貿易の中心」でした。上海の都市部の破壊は、こうした国々へ経済的打撃になり、即、蒋介石政府に対する「経済的打撃」に繋がります。蒋介石政府に軍事資金が提供されず、資金不足に陥れば、軍隊も動かしようがありません。

第二次上海事変は日本軍が「表の役」として、蒋介石政府と戦っていますが、実際には、南部も含め中国全土が、蒋介石政府(中華民国)からの分離独立を目指した「軍事クーデター」でした。この時、既に、蒋介石政府「内部分裂、内部離反」が起きており、蒋介石政府軍は、実質的に、反蒋介石派の軍隊と化していました。

だからこそ、激戦とはいえ、40万もの大軍団に対し、3万程度の日本軍が勝利出来たのであり、この「軍事紛争」を理由に、蒋介石政府軍が、外国人の貿易拠点(=蒋介石の収入源)であった上海の街を、積極的に空爆したのです。

第一次上海事変は約1か月で紛争終結でした。北支事変での北京の陥落までも約1か月です。一方、第二次上海事変は、11月14日まで3か月もの間、軍事紛争が継続していました。これは、蒋介石政府軍が「完全には撤退しなかった」ためですが、上海で3か月も大きな軍事紛争が継続すれば、ヨーロッパ諸国やアメリカからの外国人居留民の多くが、本国へ帰るか、近隣の植民地国へ避難するでしょう。第二次上海事変の収束後も、安全が確認されるまでは戻って来れませんし、商業活動も再開出来ません。これも、十分な経済的打撃になります。

一方、日本軍が、上海の街を破壊すれば、国際都市であるために、外国人の犠牲者は被害が出ます。これを理由にイギリス、フランス、アメリカが、蒋介石政府側で、日本に宣戦布告をして来る可能性があります。

そのため、日本軍は、蒋介石政府の軍事設備に絞ってしか空爆は出来なかったはずです。一方、蒋介石政府軍であれば、どこを空爆しようが、イギリスやフランスが、蒋介石政府に対して宣戦布告することは有り得ません。日本軍にとっては、軍事施設以外の攻撃は「自殺行為」ともいえる状況といえたでしょう。

当時の上海で、どの位激しい軍事紛争が起きていたか、現在の歴史では余り認識が無いと思います。実際には、このページの写真の様な状況でした。この時の上海の都市破壊も「日本軍の仕業」にされているようですが、上海のような国際都市で、日本軍が欧米人に被害者を出すことは絶対に回避すべき事態であり、こうした破壊被害は、結局、蒋介石政府軍によるものでした。

 

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