第二次上海事変の真相2ー日本租界への支那軍の不法発砲

第二次上海事変の真相2ー日本租界への支那軍の不法発砲

南支那では、蒋介石政府の保安隊(警察隊)により、昭和12年(1937年)8月9日の大山大尉らの惨殺事件の後、8月13日には、今度は、蒋介石政府軍により、上海にあった「日本租界(日本人居留区)」へ突如の不法発砲事件が起こりました。その翌日の8月14日には、上海市街地への2度に渡る「無差別空爆」も行い、日本海軍の艦隊への空爆も行いました。日本軍はこれに防戦するため、空軍までが出動する事態となりました。ここから、日中戦争(=日蒋戦争=日本ー蒋介石戦争)へ事態が拡大化していきました。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月) 上海虹口方面の火災と鐵路附近の敵の塹壕

記事:

八月九日、上海に於ける我が海軍特別陸戰隊所屬の大山大尉、齋藤兵曹惨殺事件に引續き、同十三日には、支那軍不法にも突如我に向て射撃を開始し、茲に日支兩軍の間に不幸戰端を開くに至りたるが、我方は同地が國際都市であるのみならず、帝國本來の趣意たる不擴大主義(不拡大主義)に則り、飽まで消極戰法に 據り我に十数倍せる敵の鎧鋒た防ぐにとどまりたるが、敵は我方の寡兵を見縊り、益々増長して漸次に戦域を擴大し、我軍包圍の態勢を取るに至ったので、我方も憤然蹶起し、遂に空陸呼應して敵陣を潰滅、世界に類なき皇軍の武威を遺憾なく發揮したのである。

写真:

寫眞は即ち上海戰線に於て撮影したるもの、
(右上) は〇鐵路附近に於て我軍の手に奪取されたる半永久的な敵塹壕の入口。
(左下)は上海市内虹口方面の火災を警戒しつつある日本義勇隊である。

據り(より):それを原因とすること / 見縊り(みくびり):大したことはないと甘く考える /
蹶起(決起ーけっき):決意して立ち上がり、行動を起こすこと

 

この記事だけを読むと、まるで日本軍が少数精鋭の強力な軍隊のように思いますが、蒋介石政府軍は日本軍の十数倍の兵力でした。軍事兵器についても、品質に大差はない上、蒋介石政府軍の方が圧倒的に数で勝っていました。

普通に考えれば、日本軍が勝てる理由はありません。実際に、それまでにも上海を始め、各地で、蒋介石政府軍や保安隊に日本人居留民や大使館関係者までもが惨殺虐殺という事件があっても、この圧倒的な兵力差から、日本軍は黙って耐えるしかありませんでした。軍事的に対抗しても、日本軍が勝てないのは明白だからです。

そのため、日本は常に不拡大主義を取り、こうした「軍事衝突」が起きても、挑発には乗らず、守りの姿勢を貫いていました。この時も同様です。一方、蒋介石政府軍は、それを見越して、第二次上海事変では、日本が動き出すまで挑発を繰返したのです。北部での「形式的な軍事侵攻」と異なり、南部の上海では「本格的な戦闘」は回避出来ず、双方に多くの犠牲者を出したようですが、結局は、日本軍が圧勝しました。

この結果も、やはり、張学良の8年に及ぶ、蒋介石政府の内部分裂、内部離反の工作により、南部でも「勝てる状況」が生れたからこそ、日本もようやく、この第二次上海事変で、蒋介石との「軍事対立」に踏み切れたのです。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月) 皇軍必死の奮闘(支那事變特輯ー上海方面の三)

記事&写真:

(右上) 上海に於ける我が海軍陸戦隊が、金城鐵壁を誇る壮大堅固なる本部の建物。
(右中) 〇〇方面の第一線に於ける我が高射砲隊の活躍振り。
(右下) 敵機襲來と共に一機逃さじと緊張する〇〇〇上の我が勇士。
(左上) 上海〇〇〇最前線に步兵砲を構へて敵陣地に猛射を浴びせつつある陸戰隊。
(左下) 〇〇〇上に〇砲を据付けて、敵の陣地を猛撃し、又〇〇〇〇銃を構へて緊張しつつある我が陸戰隊である。

 

写真拡大-敵の陣地を猛撃する陸戦隊

北支那では、バリケードも鉄の網や木製の柵でしたが、南支那の上海では、銃撃戦に備え、上記の様な弾丸を吸収するような材料が使われていたようです。この写真からも、日本軍が、実際は、相当に「苦戦を強いられていた」ことが解るでしょう。それでも、日本軍が勝利し、北部と同様に、各都市を占領占拠していくことで、蒋介石の独裁と圧制から中国人を解放する方法は無かったため、日本軍が圧勝するよう戦況を展開していました。

 

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月) 敵前上陸掩護の決死隊と敵陣砲撃の上陸部隊

記事:

八月十三日、上海に於て日支兩軍戰端を開始してより約十日間、我が海軍特別陸戰隊は、寡兵克く敵の大軍に當り、力戰奮闘、遂に敵をして, 一歩も我が陣地を使すを得ざらしめたが、上海包圍の敵軍は日を經るに從ひ其數を增し、既に十數萬に算するに至りたる爲め、我方も斷然同地に陸軍を急派して一舉に敵を殲滅せんと企て、八月二十三日の拂曉、我陸軍は海軍との極めて緊密なる協同の下に、揚子江上の夫々地點に於て決死の敵前上陸を敢行し、随所に凄絶悲壮なる肉彈戰た演出して遂にその目的を達成、世界の戰史に萬世不磨の光輝あるページを残すこととなつた。

写真:

寫眞の
(右上) 我が陸軍の敵前上陸を掩護する爲め、萬死を期し、各自に白襷たかけて今しも任に就かんとする海軍陸戦隊決死隊の勇士達
(左 下) 八月二十三日、揚子江岸〇〇地點に上陸したる我が陸軍〇〇隊が、〇砲を以て敵陣猛擊中の光景である。

 

注)掩護:援護 / 拂曉(ふつぎょう、あけがた、あかつき):夜明け / 地點 :地点 / 白襷:しろたすき

 

写真拡大-援護部隊の写真

北部の「北支事変」での笑顔の兵士達と異なり、南部では「本格的な戦闘」があり、少数の日本軍には極めて不利な状況であったため、兵士の表情には流石に「笑い」は消えています。張学良の事前工作を経て、80%程度が「味方」であったとしても、そもそも兵力差が十数倍ですので、少なくとも2倍か3倍の敵との「激戦」が想定されました。

満州事変に続く、第一次上海事変では、たった1か月の上海の市街戦で、半年以上、満州地域全土での戦闘とほぼ同数の犠牲者が出ていました。 写真記事のタイトルのように、「決死隊」という名称通りの状況だったといえます。この写真を見ると、どこか「侍」という感じがします。

 

 

 

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