第二次上海事変の真相1ー大山大尉惨殺事件

第二次上海事変の真相1ー大山大尉惨殺事件

第二次上海事変は、1937年8月13日に蒋介石政府軍の「日本租界」への不法射撃を発端として勃発した日本と蒋介石政府軍との軍事衝突とされています。しかし、この4日前に、1937年8月9日には、日本海軍の大山勇夫中尉が蒋介石政府の保安隊に襲撃され、運転手も含め「惨殺」された事件がありました。

この時、中国北部では、1937年7月7日、盧溝橋不法発砲事件から端を発した「北支事変」という北部の分離独立軍事クーデターが着々を進捗しており、1937年8月9日の日本海軍中尉暗殺の前日、1937年8月8日には、遂に、日本軍が北京に入城しています。

大山中尉の惨殺事件は、蒋介石政府が、北部の最重要都市を日本軍に奪われた「報復」だったといえるでしょう。北部の動向が、南部へ飛び火したのです。南部では、この大山大尉の惨殺事件が最初の発端であったと言えるでしょう。

現在の歴史認識では、満州事変と第一次上海事変の関連性や、北支事変と第二次上海事変の関連性には、余り焦点が当たっておらず、別々の「事変」のような印象です。しかし、これは、北部と南部とで起きた一連の「独立軍事独立クーデター」でした。満州事変の際は、満州の独立を確実にするため、第一次上海事変が起りました。北支事変では、北部を先行しつつ、ほぼ同時に、南部でも軍事クーデターを起こし、蒋介石の南京政府を崩壊させたのです。結果、中国全土が、蒋介石政府の独裁から分離独立を達成しました。

第二次上海事変を正しく理解するために、まず「北支事変」と「第二次上海事変」の「関連性」に焦点が当てるため、この惨殺事件から検証したいと思います。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月) 大山大尉等惨殺せらる(支那事変特号 上海方面其の二)

記事:上海なる我が海軍陸戦隊附海軍大尉(当時中尉) 大山勇夫氏は三等兵曹 (当時一等水兵) 齋藤要藏氏の運転せる自動車に搭乗、八月九日午後五時頃上海共同租界越界路を通行中、多数の保安隊に襲撃せられ、両氏共全身に蜂の巣の如き弾痕を被って其の場に憤死した。

写真:

寫真の(右上) 在りし日の大山大尉。
(中上) 惨劇を物語る現場で自動車は無数の弾丸を受けている。
(左上) 齋藤三等兵曹。
(右下) 自動車の横腹に開けられた大きな弾痕を、その夜現場に於て臨検しつつある有様。
(左下) 両氏の遺骸を陸戦隊救護車に収容する光景である

 

この時、大山勇夫氏がなぜ惨殺の対象として狙われたのかは不明ですが、大尉の地位で、運転手付きの自動車に搭乗していたことや、「歴史写真」でここまで大きく掲載されたことから、軍部にとって「重要な人物」だったようです。襲撃は、上海共同租界越界路を自動車で通行中とあり、午後五時ですので、帰宅途中での襲撃だったようです。

多数の保安隊とありますので、蒋介石政府下の警察隊の様な部隊に、多数で襲撃を受け、「全身に蜂の巣の如き弾痕を被って」、また、「両名の遺骸を収容」とありますので、その場で2名とも即死だったようです。遺体には「蜂の巣のごとき」ですので、相当な惨殺だったのでしょう。これは、日本軍と日本居留民にとっては非常に衝撃的な事件だったといえます。

 

写真拡大ー自動車の横腹に開けられた大きな弾痕

 

大山大尉らが惨殺された背景

この当時、北支那では、前月の7月7日、北京近郊の盧溝橋での不法発砲事件から「北支事変」が勃発していました。戦況の拡大の背景には、北部の通称で起きた「日本人の大量銃殺事件」も大きな要因となりました。通洲は、北京の東部にある都市で、冀東防共自治委員会(満州国と中国の間の非武装地帯)の境界線上にありました。ここで、多数の日本人も含め200名程が銃殺される事件が発生しました。一方、日本軍は、その後、着々と、蒋介石政府軍から北京周辺の都市を奪回し、8月8日には北京入城を果たします。

大山中尉惨殺事件は、翌日の8月9日です。当然、日本軍の北京入城を受けて、蒋介石政府軍からの「報復行為」であったと言えます。

北京近郊の盧溝橋事件と同様、この事件についても、日本政府と蒋介石政府間で協議解決に向け調整が進んでいましたが、蒋介石政府軍により、直後の8月13日に、今度は、上海の「日本租界に向けて」突如発砲するという事件が起きました。これは、蒋介石政府軍から日本人一般市民に対して「奇襲的な発砲」事件でした。更には、翌日の8月14日には、上海市街地へ「無差別空爆」に及び、上海付近に停泊中の日本軍の艦船に対しても空爆を行いました。これらにより事態が「軍事紛争」に一気に拡大したのです。

 

写真拡大ー遺骸を陸戦隊救護車に収容する様子

 

尚、Wikipediaなど一般的歴史理解では、蒋介石政府軍のことを「中華民国軍」としているようです。

しかし、中華民国という国は、元々は清帝国の帝政終了後、北部に北京政府が発足し、新国家となった際に付けられた国名です。現在の歴史では、中華民国は、袁世凱と孫文が共に作ったようなイメージがありますが、これは正しく無いと考えます。そもそも、袁世凱は北京、孫文は南京を政府所在地としており、北京政府発足後、袁世凱が南部の独立勢力の軍事鎮圧に出ている通り、双方に「接点」があったとは考えられせん。

 

蒋介石と中華民国

 

日中戦争とは、日本と中国の戦争ではありません。日本と蒋介石政府との戦争でした。

中華民国とは、本来は、清帝国が帝政廃止後に、袁世凱が新しく樹立した「新国家」の名称です。 南部でも、孫文が「同じ名前」の政府、又は、国家樹立を宣言したかは不明ですが、歴史の流れや、袁世凱と孫文の勢力圏が北京と南京でとで相当に離れていること、清帝国の首都北京で樹立した新政府は「旧統治者」側の政府であり、孫文の樹立した政府はあくまで「革命派」であったこと、上記の理由から、袁世凱が孫文と何等かでも協力体制にあったとは考え難いです。「中華民国」とは、「袁世凱が、「日本の大政奉還」に習い、清帝国での帝政廃止を決行し、共和国家として再興した際の国家名と考えるべきです。

 

当然、孫文が「中華民国」の初代大統領で、袁世凱が「中華民国」の第二代大統領という話には、歴史の流れからは無理があります。袁世凱は、清帝国を「共和制化」することで、北支那や中支那の「反政府勢力」の革命軍事クーデターの「大義名分」を潰しました。だからこそ、「中華民国」という新国家建国後は、南部の孫文率いる「革命派」に対して軍事制圧をしました。これにより、孫文は国外追放となり、日本へ亡命しています。

その後も、「中華民国」は北部の北京政府の新国家の名称として使われて行きました。孫文は「孫氏」ですし、中国の植民地化危機への認識もあり、中国での大きな南北戦争は回避すべきという立場だったといえます。しかし、1925年の南北政府の平和的な統一の協議に入る直前、北京で暗殺されました歴史上は「ガン」で病状が急変したことになっていますが、南京から北京へ移動後すぐに死亡しています。生きていれば、その時点で、北京政府との平和的な中国統一が達成出来ていたであろうタイミングです。「暗殺」されたと考えるべきでしょう。この時点では、「中華民国」は北部の北京政府の新国家の名称でした。

北部の北京政府の新国家の名称であった「中華民国」がなぜ、南部の蒋介石政府の国家名称になったのか、なぜ蒋介石が「中華民国」の代表を名乗っていたかは、孫文の暗殺後、蒋介石がイギリスの軍事支援を背景に「北伐」を起こし、「中華民国」を軍事制圧により奪ったためです。それも、北部の北京政府に「平和統一」を持ち掛け、同意後に、大総統だった張作霖を列車爆殺(暗殺)し、北部政府の混乱に乗じて、北部政府を乗っ取る手口でした。当然、孫文を暗殺したのは蒋介石です。孫文の死後は、孫文の側近の粛清を行い、軍事学校の校長から、南部政府の総統の地位に一気に伸し上がりました。

蒋介石の「北伐」により中国での「統一政府」が達成したとすれば「聞こえは良い」ですが、当時の中国を仮に「中華民国」という一つの国家として捉えた場合、蒋介石政府が最大勢力ではあるので、蒋介石政府が中華民国の政府となりますが、孫文は所詮は革命派のリーダーであり、実際には、南部には国家など樹立されておらず、北京政府が全土の中心政府であり「中華民国」の政府でした。蒋介石派、その北京政府を潰し、単に国家を奪っただけです。蒋介石は、独裁に走り、統治能力も低く、結果、満州国は分離独立し、第3勢力だった中国共産党とは長期の軍事対立状態になり、汪兆銘など各地域で別の政府が幾つも樹立されるなど、北京政府統治時代と比べ、「政府としての統一性は極めて低かった」といえます。

現在も、当時の歴史認識が正しくないため、蒋介石政府が「中華民国の唯一の政府」のような印象になっていますが、満州国が分離独立した時点で、また、それ以前、「北伐」で北京政府が滅亡した時点で、「中華民国」も終わっていたようなものです。それを蒋介石が名称だけ継続的に使用したのは、あくまでも、蒋介石が自分の政府が「中国全土の唯一の政府」であり「中華民国が唯一の国家」であると、世界へ印象付けるためでしょう。自分が北部を含め、統一したことにしたいからこそ、北部の国家の名称を流用したのでしょう。

蒋介石という人物は、「北伐」は「孫文の意志」だと言い張り、「中華民国」は「袁世凱が樹立」した北京政府の国家であったにも関わらず、どちらも、自分が「正式継承者」だと言い張っていました。自分では「構想や発想の無い」上に、自己顕示欲が非常に強い人格だったのではと推察します。他人の発想や他人の物を奪ってでも、自分が支配者となりたかった。自己中心的で、独裁性が強く、国家のリーダーとしての資質に欠ける人物。だからこそ、孫文は、政府内から追出し、軍事訓練学校の校長職を与えたのかも知れません。

 

日中戦争は、実際には、「日蒋戦争」であり、あくまで日本と蒋介石政府との間の戦争でした。蒋介石が「中華民国」の名称に固執したため、「日蒋戦争」は「日中戦争」と命名され、実態とかけ離れた理解が生じました。そのため、過去の歴史を振り返った時、一括りに中華民国や中華民国軍と捉えると非常に解り難く、混乱を来たすため、また、どこの誰と誰とが戦っていたかを明確にするため、このサイトでは、中華民国という名称を出来るだけ避け、あくまで「蒋介石政府」としています。

蒋介石は、アメリカを利用し、日本に壊滅的な被害を与え、中国での独裁復活を目指しましたが、結局、アメリカにも見捨てられ、毛沢東率いる中国共産党と旧北京政府勢力(反蒋介石派)に「大敗」し、中国本土から追放されました。台湾へ逃亡し、そこで「独裁政権」を継続したのは有名な話です。

蒋介石は、台湾を「中華民国」だとして、死ぬまで、自分が「中国の正式な代表者」であるとの主張を続けていたようです。一方、毛沢東は、蒋介石の追放後、中華人民共和国を正式に社会主義国家とし、蒋介石の支援国であった「アメリカ」とは「国交断絶」しました。その上で、中国の国内では、蒋介石派が再度台頭しないよう、「民衆主義」を唱える人々を大弾圧しました。文化大革命は、文化大革命でしょうが、これも、再度の、国内での大規模な内乱を回避することが「国家としての根底の理由」であったと考えます。急激な社会主義化に対しては、それまで民衆主義であった一般民主が反発するのは当然であり、結果、極端な粛清も行われ、犠牲者は100万人とも、それ以上とも、言われているようです。しかしながら、そこまで徹底的な排斥をしなければ、蒋介石という「独裁者」が、再度アメリカ軍を引き連れて戻り、国内で大内乱を引き起こし兼ねない「危険性」があったからこそでしょう。

蒋介石とは、中国に「大混乱」を生み出した歴史的な張本人と言えるでしょう。
もちろん日本と他のアジア諸国に対しても大罪人です。

 

上記の様な「本当の歴史」を踏まえれば、

台湾は、蒋介石が固執した「中華民国」の名称などは

一日も早く捨て去り、国家として「台湾」であるべきと思います。

 

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