北支事変の真相3ー蒋介石政府軍の構成

北支事変の真相3ー蒋介石政府軍の構成

北支事変から始まる日中戦争は、日本軍の圧勝に継ぐ圧勝でした。兵力差では、蒋介石軍は275万人規模です。日本は、本国での経済活動の人員確保もありますので、せいぜい10万か、頑張って集めても20万は派兵出来なかったでしょう。人口としては中国がこの当時で4億人。日本は7千人程度。人口比だけで約6倍近い差があります。大体、兵力差としては13倍~15倍程度はあったようです。

日中戦争だけでなく、当時の中国での数々の「軍事紛争」については、北京政府(旧清帝国の王朝)と南京政府(蒋介石のイギリス傀儡政府)との間での「南北戦争」という視点で歴史考察されていません。そのため、日本が「惨敗した」という「虚偽情報」が「正しい」歴史になっています。しかしながら、日本は、外国として「表面的な役割」を果たしただけであり、実際には、北京政府と南京政府が、中国全体を巡って、熾烈な権力闘争を繰返していました。

ここでは、南北対立という視点で、蒋介石の政府軍の構成について纏めてみます。

 

昭和12年8月(1937年8月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(6)

記事&写真*

(右上)支那軍中に 於ても勇將の聞え 高き「韓復榘」氏。
(中上) 事變勃發と共に北平に於
ける城內のガードに於て堰止められた通行人。
(左上)豫てソ聯と脈絡を通じ、 排日抗日の總本家 として、極端なる對日主戰論者たる。 現代支那第一の猛將軍「馮玉祥」氏。
(左下) 中央軍の代表的將帥右より「李服膺」「熊 斌」、「和湯思伯」の諸氏。
(左下) 事變勃發前、山西省の某地に集結し たる中央軍特派の一 軍用飛行機であ る。

 

上記では、馮玉祥以外にも、韓復榘、李服膺、熊斌、和湯思伯の4名が紹介されています。

 

1.馮玉祥:(ふう ぎょくしょう またはひょうぎょくしょう)- 張学良派馮玉祥ーWikipediaより

中華民国の軍人。中華民国軍陸軍一級上将。

北京政府に属し、当初は直隷派であったが、後に国民軍(蒋介石政府軍)を組織し、その指導者となった。

北伐に際しては五原誓師を行い、全軍で中国国民党軍に加入、国民革命軍(国民政府=蒋介石政府)に参加している。旧名は基善。字は煥章。祖籍は安徽省廬州府巣県(現在の巣湖市)

Wikipediaの冒頭には、中原大戦で「反蒋介石戦争」を起こした事は記載が無いので、純粋に中華民国(蒋介石政府)の側の人間との理解になるでしょう。

しかし、この「馮玉祥」は、北京政府の直隷派にいた人物です。中原大戦では、「張学良」の停戦呼びかけに応じ、敵であった蒋介石政府側に寝返った人物です。 張学良が、蒋介石政府の内部分裂を目指し協力を求めたとすれば、敵方へあっさり寝返ったとしても不思議はありません

 

2.韓 復榘(かん ふくく)- 張学良派 (韓 復榘ーWikipediaより

中華民国の軍人。北京政府、国民軍、国民政府(国民革命軍)の軍人。
国民軍では、馮玉祥配下の「十三太保」の1人と称された。字は向方。

北京政府の直隷派に所属し、北伐では蒋介石側に付いたものの、中原大戦(=反蒋介石戦争)を起こした馮玉祥の腹心ともいえる部下の一人。

 

 

3.李服膺 - 張学良派 

以下、Bai duより(https://baike.baidu.com/item/李服膺/9173825

李服膺(1890-1937)、通称木厳は、山西省崞県で出身。保定陸軍士官学校の歩兵部門の第5段階を卒業。幼年期に入隊して「閻錫山」に従い、1930年には「閻錫山」第5軍の司令官を務め、1931年には国民革命軍第68師団の司令官を歴任。第68師団は第61軍に改編され、傅作義、趙成寿、王景国らと共に閻西山の十三太保と呼ばれた。

李服膺は、閻錫山の腹心ともいえる部下(十三太保)の一人です。「閻錫山」とは、「馮玉祥」と共に、中原大戦(=反蒋介石戦争)を起こした人物です。「閻錫山」も、また、中原大戦を停戦させた張学良の呼びかけに応じ、敵であった蒋介石政府に参入しました。

4.熊 斌(ゆう ひん)- 張学良派熊 斌ーWikipediaより)

熊 斌(1894年ー1964年)湖北省出身。北京政府では参謀本部参謀となる。馮玉祥の配下となり、馮玉祥側近として国民軍(西北軍)で要職に就いた。北伐では、馮に従って蒋介石政府軍に付いたが、後の、中原大戦では馮に従って反蔣介石派として参戦。馮玉祥と共に蒋介石政府へ参入

西北軍: 北京政府・直隷派だった「馮玉祥」が結成した軍事組織。熱河省・察哈爾省・綏遠省・甘粛省を支配した。

熊 斌(ゆう ひん)も、また、馮玉祥の腹心ともいえる部下の一人だったと言えるでしょう。

 

5. 和湯思伯(湯恩伯(唐恩波:とう おんはく)- 張学良派湯恩伯ーWikipediaより

湯恩伯(1899年ー1954年)浙江省出身。蒋介石政府の中央政府直系の主要部隊の 1 つで司令官となる。国民革命軍の軍人として様々な戦役で活躍、高級指揮官となったが、日中戦争・国共内戦では多くの惨敗を喫している

蒋介石政府の中央軍(直属軍)は「陳、胡、唐」と呼ばれ、陳は陳成、胡は胡宗南、唐は唐恩波(湯恩伯)でした。

この人物は、蒋介石の直属軍を構成する軍隊(軍閥)の指揮官でした。この湯思伯(湯恩伯)は、蒋介石と同様に、浙江省の出身であり、一見、蒋介石の腹心であるように見えます。浙江省の出身ですので、軍隊としては「東南部方面=上海方面」が支配地域といえます。

蒋介石政府の中央軍(直属軍)は、張学良の内部分裂工作には取り込めなかった軍閥といえるでしょう。日中戦争では、日本軍が実際に戦闘を繰返した軍閥といえます。しかし、日中戦争・国共内戦では多くの惨敗していた通り、動きとしては「反蒋介石派」であったといえます。要は、蒋介石政府の中央軍(直属軍)は「陳、胡、唐」の3大軍隊のうち、少なくとも1つは「反蒋介石派」として分裂したいた可能性が非常に高いといえます。

唐恩波(湯恩伯)は綏遠事件では、閻錫山の腹心である「博作義の配下」となっており、以下の写真の通り、李服膺と熊 斌とは、3人で、にこやかに写真に納まるような関係であったことから、博作義⇒閻錫山の流れで、張学良とは接点があった可能性があります。

 

日中戦争では「日本は常に圧勝だった」でした。日本が圧勝し、蒋介石を中国から実質追放に成功にしたため、蒋介石は起死回生の為にアメリカを利用して、日本と戦争させたのです。Wikipedia等でも、一般的な歴史認識として「日中戦争では日本が惨敗した」前提で作成されていますが、これは間違いです。

 

日本軍の圧勝と蒋介石政府の内部分裂

日中戦争で、極めて小規模な日本軍が圧勝し続けるには、当然、トリックがありました。トリックとは、蒋介石政府軍を、「反蒋介石派」⇒「日本軍(満州帝国)の味方」にし、日本軍に勝たせるという方法です。このために、張学良は、敢えて、祖国を裏切り、蒋介石の政府内へ深く入り込んだのです。そして、中原大戦以降、旧北京政府であった軍閥を、蒋介石政府へ取り込み、蒋介石政府軍の中に、密かに「反蒋介石」」の軍隊を形成して行きました。

 

張学良が、「中原大戦」の停戦調停を利用して、反蒋介石派の閻錫山と馮玉祥を取り込み、その部下を通じて各省の軍隊を統治下を置きました。閻錫山は腹心といえる部下が13名。馮玉祥は直属の配下が5名。この5名を含み21名の腹心ともいえる多数の配下がいました。閻錫山と馮玉祥は、元々は、旧北京政府(旧清帝国の共和化政府)での主要な軍閥のリーダであり、当然、その部下も旧北京政府派だった人々です。

更には、南部の軍閥を率いていた「李 宗仁(り そうじん)」という人物も、「北伐」では蒋介石政府側に付いて参戦したものの、1929年には「蔣桂戦争(反蒋介石戦争)=蒋介石-李 宗仁戦争」を起こし、中原大戦では、閻錫山と馮玉祥と共に、反蒋介石政府側で参戦しています。

 

蒋介石政府軍の80%は反蒋介石派だった

北伐では、蒋介石軍(南軍)は4つの大軍閥で構成されていました。蒋介石の東南軍、閻錫山が山西軍、馮玉祥が西北軍、李宗仁は新広西派を率いていました。Wikipediaによると連合軍は40万だったようですが、新広西派は20万人の規模の大軍でした。李 宗仁は広西省を統一し、広東は李 済深(り さいしん)が支配しており、新広西派は李 宗仁と李 済深の同盟軍閥でした。「北伐」後、蒋介石が広東の李済深の排斥を企てた事から、蒋介石と李宗仁の間で戦争が勃発しました。この戦いで、李 宗仁は敗北しますが、翌年、1930年、閻錫山と馮玉祥と共に「中原大戦」に参戦しています。

この中原大戦では、最後は、張学良が停戦調停を行い、蒋介石にも恩を売りつつ、閻錫山と馮玉祥と李宗仁も味方に付けたと言えます。

中原大戦の真相4-張学良による停戦

 

注)新広西派:広西・湖南・湖北及び河北の山海関から天津一帯で、「国民革命軍第4集団軍」の名称で16個軍と6個の独立師団、兵力約20万の規模を誇った軍閥。

 

張学良と李宗仁

日中戦争が勃発した際、蒋介石政府軍は、表向きは「大規模な軍隊」でしたが、実際には構成する軍閥の8割は張学良の実質的な支配下であったでしょう。なぜ、張学良がここまでやったのか、動機は、父親を惨殺された恨みだったのでは無いでしょうか? 李宗仁も、同様に、蒋介石へは相当な恨みを持っていたと思います。

張学良は、その後も逃亡しませんでした。機会が無かったとは思えません。軟禁されていたというより、敢えて、蒋介石の側に居続けたのではないでしょうか。「親しい友の顔」をしつつ、その実、「人生を潰そう」と最後まで狙っていたかも知れません。恨みを晴らす前に、立ち去れなかったという見方もあります。

それが、蒋介石が台湾へ逃亡して以降も、蒋介石が死亡するまで、逃げなかった理由と思います。西安事件では、張学良は処分されていません。蒋介石に「軟禁」されるほどの理由は無かったはずです。張学良は、最後まで、密かに「監視」を続けていたとも言えます。蒋介石の死亡後は、中華人民共和国からの帰国招致を断って、ハワイへ渡り、死去しています。

一方、李宗仁は、蒋介石政府側の人間ではありましたが、蒋介石とは折々対立していました。毛沢東により中華人民共和国の成立後は、台湾へは行かず、アメリカへ亡命しています。また、晩年は、中華人民共和国へ戻っています。北京で死去したようです。

Wikipediaには毛沢東と一緒に写った写真が掲載されています。

以下の写真は、Wikipediaより(李宗仁ーWikipediaより

毛沢東は、張学良や李宗仁が、実際には蒋介石を「中国から完全排斥」するために動いていたことを知っていたのかも知れません。

蒋介石の残忍な人間性

蒋介石という人物は、「利用するだけ利用し、不要になったら平気で切り捨てる」人間だったようです。孫文は、その人間性を察知し、自分の政府内から外し、「軍事学校の校長」という職務を与えたのでしょう。孫文は北京で死去していますが、「北部との平和的統合」を阻止するために、暗殺された可能性は否定出来ないでしょう。その後の蒋介石による上海クーデターや孫文の側近の粛清などから、孫文の暗殺したのは、蒋介石だったかも知れません。

「北伐」でも、閻錫山と馮玉祥と李宗仁を味方に付け散々利用しておきながら、「北伐」達成後は、排斥しようとしました。南京大虐殺の証拠と言われる捏造写真、そこに写る大量な人々の惨殺虐殺、台湾での独裁など、蒋介石の「軌跡」を振り返れば、日中戦争が、政府軍部での内部分裂、離反が最大の原因であったという私の「研究結果」にも十分ご納得頂けるのでは無いでしょうか?

Wikipediaでは、蒋介石は1972年6月に肺炎に掛り、1975年に死去しています。私が以前どこかで読んだ話では、2度の交通事故に遭い、1度目が1972年6月だったと記憶しています。1972年は、9月に、日中国交正常化で当時の田中首相がいきなり中国へ出向き国交回復を果たしました。これは米中国交正常化とほぼ同時に突然決まった感じでした。アメリカと中国の国交回復に、蒋介石の存在は「邪魔」だったと言えるでしょう。

蒋介石は、1度目の事故では「未遂」に終わりましたが、1975年に2度目の交通事故の後に死去したと記憶しています。多分「暗殺」だったのではと考えます。

戦後、現時点で77年。直ぐに100年を迎えるでしょう。日本への誤解が一日も早く解け、日本の名誉が回復出来ることを願います。そして、日本は、どんな事があっても、戦争はしないと覚悟を持って未来を描けるよう、このサイトを残したいと思います。

 

 

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