北支事変の真相2ー蒋介石政府軍の軍事規模
満州方面や内蒙古方面から、中国内陸部へは、北京を経由し、盧溝橋という橋を通って鉄道輸送が行われていました。日本にとっても満州にとっても、この鉄橋を破壊された場合の経済損失は多大なものがありました。蒋介石政府では、常に、日本に対しては居留民襲撃や小規模な軍事攻撃などを繰返しており、「満州事変」により、北京以北の満州地域での治安については確保出来たものの、北京以南については、蒋介石政府の軍隊が常駐しており、いつ攻撃を受けるか解らない不安定な情勢が続いていました。
昭和12年8月(1937年8月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(3)
記事: 支那軍隊の総兵員は、一九三六年四月現在で、百二十五万余、此外、不正規軍五十万、合計二百七十五萬余に達するので、しかもその戦闘力は、近年驚くべき急進歩を示し、飛行機の如きも一千臺に近く、タンク亦五六百臺を擁しており、其勢ひ却々侮るべからざるものがある。 写真右上は北平(北京)付近に於ける支那軍の装甲車輸送。左上は支那国民政府の代表者蒋介石氏。
写真: 右下の右は軍政部長何応欽氏。同左は新欧米派の急先鋒たる宗子文氏。又左下は北平の俯瞰写真である。
支那軍=蒋介石軍の軍事規模は、1936年4月現在で、約225万人です。この他に、不正規軍(便衣隊など)が50万人、合計275万人でした。飛行機は1000機、タンク(戦車)が500~600機です。日本軍との兵力差は一目瞭然です。蒋介石軍へは、イギリスなどが最先端の軍事兵器を提供していました。軍事兵器の品質は互角か、ヨーロッパの方が進んでいたかも知れません。
上記の記事は、当時の蒋介石政府軍(支那軍)の戦闘能力を知る貴重な資料であるといえます。情報の信頼性としては、日本の出版社が蒋介石政府軍の規模について誇張して掲載する必要は無いため、限りなく真実だと考えて良いでしょう。飛行機やタンクなども、当時の最新兵器も多数保有していたようです。日本軍が全軍で総力で戦っても、勝てる見込みは絶対にありません。
ですが、当時の日本政府は、不法射撃事件の後、5日程の審議で「強硬的な姿勢」=「戦闘の姿勢」を取るとを正式に発表しています。これは、日本政府の認識として、蒋介石政府軍との戦闘では十分勝利出来る見込みがあった事を意味しているでしょう。なぜなら、この時、既に、蒋介石政府軍では、内部分裂、内部離反が起きていたためです。
蒋介石ー写真拡大
昭和12年9月(1937年9月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(十)
以下は、支那軍不法射撃のあった盧溝橋方面での日本と支那(蒋介石政府軍)の「陣地要所図」です。
昭和12年7月(1937年7月)19日(事件前日)時点
左上の文章:
第二十九軍の兵力は約四師(八万)なり。尚、中央軍は第二十九軍の増援として続々平津(北京(北平)ー天津)方面に向て集結中なり。
日本軍は、真ん中の黒の太枠部分です。黒い虫の様な記号が支那軍(蒋介石政府軍)の陣地です。右側の北平は北京のことです。蒋介石政府では、南京が「京の都」であるため、北京は「北平」と改名されました。
北京(北平)には、「四師」とありますので、四師団が駐留していたようです。1師団で2万人規模です。支那軍(蒋介石政府軍)から不法発砲射撃があったからといって、日本軍が反撃に出るなど自殺行為であり、有得ないくらいの兵力差でした。
ですが、ある意味、ここでの支那軍(蒋介石政府軍)は基本的に「味方」です。軍事クーデター決起に当たり、万が一、南側から「蒋介石の正規軍」の援軍として攻め込んで来ても、北京へは簡単に到達できないよう、要所である盧溝橋を中心に、「8万人の大軍」が、少なくとも前日までに「配置」されていました。軍事クーデターの決起後は、確実に日本軍が勝ち、北平(北京)を占領出来るようにです。
「北支事変」は盧溝橋で起きていますが、この橋は、南部から北京へ通じる「重要な橋」ですので、普段からも警備の目的で、蒋介石に怪しまれず、この付近へ「大軍」を配置することが可能です。仮に、南部から「蒋介石政府の正規軍(本当の蒋介石軍)」が北上した際も、最悪、この橋を渡る前に「撃退」出来ます。更に言えば、ここへ大軍を配置することで、「蒋介石政府の正規軍(本当の蒋介石軍)」が北上する理由を潰せます。それでも北上すれば、蒋介石政府軍での重鎮であった「馮玉祥」の顔を潰すことに成り兼ねません。蒋介石としては、身動きの取りようが無かったでしょう。
「北支事変」の始点として、その後の戦略上、盧溝橋である必要があったといえるでしょう。
「北支事変」が成功した理由
「満州事変の真相」で述べた様に、満州事変から満州国の分離独立が成功した大きな要因として、張学良が東北軍を動かさなかったことが挙げられます。蒋介石政府内では、引き続き、張学良が東北軍の全体指揮を執っており、北京郊外の柳條溝で満鉄線路の爆破を企てたのは張学良の部下の「王以哲」でした。表向きは「王以哲」の「独断」での行動ですが、当然、「張学良」が裏で指示を出したといえます。日本軍と敢えて軍事衝突を起こさせるためです。
北支事変でも同様に、この時、蒋介石政府内で東北軍の全体指揮を執っていたのは、張学良の配下であった「宋哲元」であり、北京郊外の盧溝橋で「演習中の日本軍を襲撃」したのは、「宋哲元」と共に張学良の配下であった「馮治安」でした。張学良は、西安事件の時、「排日反日と日本への宣戦布告」を訴えていますから、張学良の配下が日本軍を攻撃するのは、非常に理に叶った行動です。蒋介石には「裏切り」は悟られていなかったかも知れません。
西安事件の7カ月後、1937年7月の「北支事変」の際は、張学良は軍事的な指揮者としては表舞台からは完全に退いていたものの、蒋介石から特赦(恩赦)を受けて懲罰を免れており、蒋介石に「有益な結果を生んだ」と理解されていました。そのため、張学良には引き続き、政府内部の自分の配下を動かす「実権」はあったのでは無いでしょうか? 仮に幽閉の身となっていたとしても、自分が満州事変の際に具体的な行動は手本で見せていますし、旧北京政府の同志でもあり、張学良の配下の人物達であれば「満州の時と同じ」で通じたのではないでしょうか。
「北支事件」を起こした「宋哲元」
ちなみに、「北支事件」を起こした「宋哲元」は「馮玉祥」の配下の「五虎将」(宋哲元、張之江・鹿鍾麟・鄭金声・劉郁芬)の1人でした。張学良の父親の「張作霖」と「馮玉祥」とは、1920年代の「奉直戦争」では敵対関係でしたし、「馮玉祥」は「北伐」の際には蒋介石側で参戦しました。しかし、「北伐」を経て「易幟」以降は、「反蒋介石戦争」を自ら起こし「中原大戦」では蒋介石と戦っています。この中原大戦は張学良が「停戦」させていますが、この際に、「張学良」と「馮玉祥」の間では水面下での協力体制が築かれたといえます。
「馮玉祥」は、張学良と同様、蒋介石政府側に付き、反日抗日を積極的に掲げていました。「北支事変」の際は蒋介石政府軍では「第一の猛将軍」と言われる程の高い地位に付いていた人物です。そして、盧溝橋事件の際には、蒋介石政府軍(東北軍)の第29軍は、直属配下の「宋哲元」が率いていました。そして、その部下の「馮治安」の率いる部隊が日本軍に発砲しています。
「馮治安」は、「北伐」以前から「馮玉祥」の配下であり、その後、「宋哲元」と共に「張学良」の配下で東北軍第29軍の軍長になった人物です。要は、宋哲元と馮治安は、張学良と馮玉祥、共に部下だった人物です。張学良とその同志や配下が蒋介石政府側に「寝返った」のは、満州国の独立の際、北支地域の独立の際に、蒋介石政府軍を、自分達の意図通りに動かすためでしょう。
満州事変の際も、北支事変の際も、東北軍は表向きは蒋介石政府軍、ですが、実態は「満州国軍(旧北京政府軍)」でした。こうした軍隊が、事前に各都市に分散配置されており、日本軍が到着すると、都市をほぼ無傷で明け渡し、日本軍の占領下になるよう動いていました。一旦、日本に占領させ、その後に、占領地全域で分離独立するためです。