北支事変の真相1ー盧溝橋での不法射撃事件

北支事変の真相1ー盧溝橋での不法射撃事件

北支事変とは、中国全土が蒋介石政府からの分離独立を図った「軍事クーデター」であり、中国北部側での軍事紛争のことを言います。発端は、1937年7月7日、北京城の西南にある盧溝橋という橋の付近で、日本軍が夜間演習中、蒋介石政府軍から突如射撃による攻撃を受けたため、これに応戦する日本軍との間で起きた「軍事衝突」でした。

蒋介石政府は「北伐」の際、敵将であった張作霖を暗殺し、混乱する北京政府を軍事制圧しました。この暗殺事件は、「北京の無血開城」に双方の同意が結ばれた直後、祖国満州へ帰還中の張作霖を「列車ごと爆殺する」と言う極めて卑劣な手口でした。その後の独裁体制への反発もあり、「北伐」では、蒋介石に味方した旧北京政府の軍閥らにより、反蒋介石政府戦争=中原大戦が起きました。張学良は、この「中原大戦」を休戦させ、旧北京政府の軍閥らを配下に取り込みます。

こうした流れを考えれば、張学良は、「北伐」⇒「易幟」に続く「蒋介石政府の軍事統治」が始まった頃から、「旧清帝国の領土奪回」を目指していたと考えます。満州国建国も、北支の自治化も、内蒙古の分離独立も、張学良が、「日本軍が勝てる状況を作らなければ決して達成出来ないことでした。そのため、自ら、祖国の裏切り者となり、蒋介石政府に下り、その実、蒋介石政府軍の内部離反を画策していたのです。

北支事変は、北部側の準備が整ったので、北部側から「分離独立軍事クーデター」を開始し、ほぼ同時に南部側でも「分離独立軍事クーデター」を起こし、その後は、北と南から中央部へ進軍し、中国全土を分離独立させる「作戦」でした。満州事変の際と同様、日本という「外国」との戦いであれば、中国本土での「大きな内乱」は回避出来ます。日本は、植民地化を進めるイギリスの傀儡政府だった蒋介石政府から、中国全土を奪回するため「表の役割」を担ったのです。

 

昭和12年8月(1937年8月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(1)

記事:

七月七日の夜半、支那駐屯の我軍は北平(北京)の西南盧溝付近に於て演習中、突如支那軍隊の射擊を蒙り、激戦数刻、潰走せしめたるが、翌八日、我軍は、彼れの不法に対し厳重なる交渉を開始せんとするや再び射擊せられ、即時応戦、 是を擊退し、其後、彼我両軍折衝の結果、夫々軍の撤退を約束したるも、支那軍は約を守らず、又や我軍に挑戦すると同時に、その後方に続々と大軍を集結し始めたるに依り、我方に於ても遂に断然意を決し、北支派兵を決行すると共に暴戾支那応懲の覚悟を決め電光石火、あらゆる機宜の策を執ることとなった。

写真:写真の右上盧溝橋鉄橋。左支那軍の砲兵陣。右下盧溝橋。左下事変の中枢地帯である。

折衝:外交など交渉相手との談判。暴戾:残酷なこと。乱暴で道理に背くこと。
機宜:時機にふさわしいこと。

 

ここで、支那軍(支那軍隊)と呼ばれているのは、蒋介石政府軍です。北京など北部側は、張学良の東北軍が守備していました。満州国の建国の際、張学良は東北軍を率いて満州地域から「撤退」はしていますが、その後も、北支那については東北軍が主体であったといえます。

蒋介石政府軍は、中国全土に跨る大軍でしたが、実際には、その大半は「旧北京政府統治下の軍閥」でした。「北伐」での「南北政府統一」では、旧北京政府統治下の軍隊を取り込む形で、蒋介石政府軍が構成されました。「易幟」以降は、張学良の東北軍も蒋介石政府軍の主要軍隊となりました。張学良は、満州国の独立後は、東北地域での直接的な統制権は失いましたが、北部側(北支那)には、自分の直属の配下が各地に散らばっている体制には変わりありませんでした。

北支事変では、張学良は「表舞台」からは退いていましたが、昭和4年(1929年)の「易幟」から昭和12年(1937年)の8年に掛けて、各地に「配下」を分散させ、西安事件以降は、裏側で「まとめ役=軍師」となっていたでしょう。

この8年を掛けて、蒋介石政府の内部分裂工作の結果、一部の軍閥を除いて、殆どが「反蒋介石」の立場を取るよう、更には中国共産党とも「親密な関係」を築いていきました。そうして、日本と蒋介石政府との間で戦争が起きた場合は、極めて「少数の日本軍でも確実に勝てる」状況、また、日本人、中国人、双方に「人的被害の少ない」状況になるよう、綿密に準備をしていたといえます。

 

盧溝橋での不法射撃事件

盧溝橋事件は、発端は、北京付近の盧溝橋での蒋介石政府軍からの不法発砲でした。しかしながら、この蒋介石政府軍も、張学良派の「旧北京政府軍」であった人物が仕掛けています。日本が、当時、張学良の計画を知っていたかは不明ですが、折々、蒋介石政府軍(旧北京政府軍)から仕掛けられる「攻撃」により、張学良の「日本軍を利用した独立軍事クーデター」の計画の通りに動いていたと言えるでしょう。

当時の日本は、旧北京政府時代から、満州、内蒙古、ロシアのシベリア方面から、天然資源を満州鉄道網によって輸送していました。中国南部は、石油や鉄鉱石などの天然資源は産出が少ないため、北京(北平)を経由し、南部方面への鉄道輸送が行われ、また、日本へは大連や天津まで鉄道輸送、そこから貨物船で海上輸送されていました。

盧溝橋という橋は、北京の南部を流れる比較的大きな永定河に掛かる橋で、地図によると南側には鉄道用の鉄橋が掛かっていました。日本にとっても満州にとっても、この鉄橋を破壊された場合の経済損失は多大なものがありました。

 

盧溝橋鉄橋(鉄道用)ー写真拡大

上記の写真から、かなり大きな河川であることが判ります。

 

盧溝橋(人馬&車用)-写真拡大

この橋は、北京への軍事侵攻という意味で、非常に重要な拠点です。

 

北京(北平)との位置関係

上記の地図は北平(北京)と盧溝橋の位置関係を示す地図です。盧溝橋は永定河に掛かる橋でした。当時、中国の中部(中支那)や南部(南支那)方面への物資を輸送においては非常に重要な拠点であることは想像に易いでしょう。北京からは通州、天津への鉄道路線が伸びていたことも伺えます。「豊台」で南と東に路線が分岐しています。この付近で「軍事衝突」は日本にも満州帝国にも大きな意味がありました。

 

昭和12年8月(1937年8月)発行「歴史写真」から
昭和12年7月(1937年7月)- 北支事変(2)

 

記事:

盧溝橋不法射撃事件の後、支那に続々大兵を移動せしめ、今や日支両国の全面的衝突は愈々避け難き情勢に立至りたる為め、近衛首相は七月十一日夜首相官邸に言論界、財界、貴衆両院代表者た招致して、政府の強硬決意を発表し、同夜中外に同て声明書を発した。

写真: 写真の右上はその夜の首相官邸。右下は当夜近衛首相の挨拶。又左上は、新たに支那駐屯軍司令官に任ぜられて七月十日飛行機に搭乗○○に向ひたる香月清司中将。左下は同中將夫人つる子さん及二男秀雄三男良夫の二人の令息である。

上記の記事は、北支事変においても日本側から攻撃したのではない証拠といえます。蒋介石政府軍が夜間に奇襲し、その後停戦交渉にも応じず北京周辺部に軍隊を終結しようとしており、日本はこれに慎重に対応する為、事件発生後5日程は様子を見ており、軍隊規模の小さい日本軍は、「全面衝突」は出来る限り避けたいのが本音であったといえます。しかし、見方を変えれば、たった5日間で、政府の強硬決意を発表しています。初めから「勝てる見込み」があっての決断であったともいえます。

 

日本は、北支では、自治運動が興り、翼東防共自治委員会(非武装地帯)が発足した際、蒋介石政府による度々の襲撃事件から北支事件が起き、日本軍から中国北部へ多くの兵隊を派遣することになりました。盧溝橋は鉄道網での物資輸送ルートでは要所です。ここで蒋介石政府軍と何らかの軍事衝突が起きれば、日本軍も無視する訳にはいきません。

盧溝橋不法射撃事件は、分離独立の「軍事クーデター」を起こす目的とすれば、「要所」を突いた攻撃だったといえます。盧溝橋であれば、少人数の軍事攻撃を発端に、北部での軍事衝突に拡大させることが可能です。満州事変の際と同じ戦略です。満州事変では、支那兵の満鉄破壊計画でした。これを発端に、事態を「戦争」に拡大し、その後は、日本軍が各都市を巡って、占領して行きます。そして、全土占領後に、占領地域を独立させたのです。「北支事変」もほぼ同じ工程でした。

日本軍の兵士達が、どうして自分達が毎回圧勝なのか、本当の理由に気が付いていたかは不明です。蒋介石政府軍は、蒋介石の直属軍も混在しており、排日運動も激化していたことから、実戦では苦戦を強いられる局面もあったでしょう。「北支事変」での軍事衝突では日本軍側もかなりな被害が出たといえます。