北支自治運動の真相1- 非武装地帯の必要性
満州国の独立建国後は、隣接する華北地域でも独立の動きが表面化するようになって行きました。当時の中国国の北部地域の分離独立運動については、中国の近代史では殆ど知られていないでしょう。しかしながら、満州国がなぜ国家として、蒋介石政府の「中華民国」から分離独立が必要だったか、蒋介石政府がいかに多額の軍事借款を抱えていたかを考えれば、満州民族や東蒙古民族が何としても国家として分離しなくてはならなかった理由が見えてきます。
蒋介石政府の排日運動激化と非武装地帯の必要性
1932年の満州国建国後は、中国国内では、こうした蒋介石政府の排日運動が更に激化して行きました。蒋介石政府は、海外からの軍事支援で成立していた政府であり、蒋介石に国家統治能力があって成立した訳ではありません。蒋介石政府の独裁的な統治の下で、中国は全国的に治安も経済も非常に悪化して行きました。蒋介石軍が一般民間人の財産を強奪する事件も多発しており、蒋介石政府は、既にかなり財政がひっ迫していたといえます。
蒋介石政府軍が、民間人からの財産略奪や襲撃を行っていたため、日本としては、中国本土での日本人居留民の安全を図るためには、日本から軍隊を派遣する必要がありました。満州国建国後は、依然として「蒋介石政府統治下」であった北支那、特に、北京周辺に大量に常駐する必要が生じました。結果、これが蒋介石軍への刺激となり「軍事衝突」に繋がる可能性は非常に高くなったといえます。
一旦、軍事衝突が起きれば、蒋介石派、それを理由に、再度、軍隊を北上させ、満州国との戦争に繋がることが懸念されます。これを回避するため、満州国と中華民国(蒋介石政府)の間で、非武装地帯や緩衝地帯を設ける必要が出て来たのです。
また、その必要性は、1934年3月1日、満州国が満州帝国(帝政の復活)となった以降、更に強まりました。北部領域は、元々「清帝国」の直接的な統治下にあった地域です。蒋介石の「統一政府」では、その後も、国内では戦争に次ぐ戦争です。北部領域、また、その他の地域でも、蒋介石に失望した民衆は多かったでしょう。
満州国建国とは、隣国で「清帝国が復活」したのも同然です。蒋介石政府下にいれば、やがては植民地化され、民衆は奴隷になる運命であれば、300年以上続く「清国」へ戻ろうとするのは自然な流れでしょう。蒋介石政府は、当然、そうした動きを鎮圧しようとします。反日、反満が激化し、不祥事件が多発、治安が悪化し、1935年6月には、日本軍が出動する事態(北支事件)が起きて行きました。
北支5省の独立運動
こうした流れの中、1935年10月頃、黄河の北部地域である河北省、山西省、山東省、察哈爾省(チャハル省:内蒙古中央東部)、綏遠省(内蒙古中央西部)の北支の5つの省が、蒋介石政府からの自主独立を目指し民衆運動を本格化する事態が起こりました。
その解決策として、1935年12月18日、河北省の北京の東北側にある潮白新河を境に満州国境までの以北を、冀東(きさつ)防共自治政府として、「非武装地帯」を設け、更には、北京、天津、塘沽を含め以南の河北省と、満州国西部で隣接する察哈爾省(チャハル省:内蒙古中央東部)の領域を合わせ、冀察(きさつ)政務委員会として「緩衝地帯」が設けられることになりました。これにより、冀東防共自治政府と冀察政務委員会が、満州国と中華民国北部の間に地方政権として成立しました。
冀東防共自治政府と冀察政務委員会の地域図(Wikipediaから)
満州国の建国以降、蒋介石は、天然資源(返済原資)を求めて、共産党勢力が強かった北西(外蒙古)方面や、イギリスが方針転換で進出を図っていた西方(西蔵=チベット)方面へ、軍事支配の拡大を展開して行きました。特に、共産党勢力への軍事攻撃は長期かつ徹底的に行われていました。
イギリスとソビエト(ロシア)の対立を考えれば、蒋介石が共産党撲滅戦争へ力を入れたのは当然の成り行きです。中国の東北方面(満州)や北部方面(北支那)は、蒋介石としては、大きな軍事衝突は回避したかったといえます。戦争を行うメリットが無いからです。取り敢えず、独立運動を鎮静するため、北部に自治政府を認めざるを得なかったといえます。
北支での自治政府の復活
現在の歴史解釈では、「日中戦争の責任は全て日本にある」という前提で、偏った視線で歴史が作られていますので、当然、この自治政府も「日本の傀儡的な政府」だったとされています。しかし、実際は、蒋介石は、反日抗日を理由として、中国人の一般市民を扇動しては、輸送鉄道網への攻撃や日本人居留民への襲撃などを繰返しており、これは日本人だけでなく、中国人にとっても大きな脅威となっていたのは想像に易いでしょう。
また、この頃には、蒋介石政府の財政状態やイギリスの傀儡政府である実態は、北部側は民衆にも知れ渡ったいたといえます。少し考えれば、南部の農業手工業が政府財源である蒋介石政府が、どうして海外から最新の軍事兵器を大量に購入出来るのか、その理由を知れば、民衆が離脱して当然です。蒋介石政府の統治下でいれば、最終的には、北部の民衆も他のアジア地域と同様に「植民地の奴隷」と化します。北支での自治運動は、起こるべくして起きたと言えるでしょう。
この時も、「満州国」から「中華民国」へ派兵することは「侵略行為」になるため、日本軍が「居留民の安全確保」のために大量に軍隊を派遣し、治安維持を図り、結果的に、北支那の中国の民衆も守っていました。日本としては、国家にとって大きな軍事負担ではあったものの、北部地域の治安を回復しなければ、天然資源の日本への輸送にも支障が出ます。内蒙古地域から日本へは、北京を経由し、中国北部の大連などの「港」へ輸送する必要がありました。北治の治安回復と維持は必須です。
そのため、北京周辺以北や周辺の北方地域での北支自治運動は、満州国と日本が共に支援したと考えますが、それ以上に、中国人大衆が、蒋介石政府から自分達を守るべく取った行動であったといえるでしょう。面積として広域であった冀察政務委員会(緩衝地帯)は宋哲元が委員長を務め、冀東防共自治政府(非武装地帯)については、宋哲元に代わり、馮治安が務めていたようです。
満州国の「防御壁」役だった「日本」
蒋介石政府からすれば、「満州国の独立」は自身の政府の軍事借款の返済目途が立たなくなった事を意味したといえます。蒋介石政府は、政府としては当初から「財政破綻」していたことは想像に易いでしょう。一方、植民地化政策を進めるイギリスなど欧米諸国は、蒋介石に多額の軍事資金と軍備を提供を続けていました。蒋介石が「中国統一」を果たした後、イギリスは蒋介石に軍事資金の返済を迫り、代償として、中国の分割譲渡と民衆の奴隷労働で返済させるためです。
蒋介石は「北伐」で一旦は「中国の南北政府統一」は果たし、「北伐」の後は、第3勢力として「共産党」の撲滅戦争へ重点を移しました。しかし、旧北京政府側が日本と同盟し「満州国」を国家として分離独立する事態が起き、これにより「中国の南北政府統一」は破綻します。「満州民族=旧北京政府」は、蒋介石との大きな内戦を回避する為、一旦、外国である日本に満州の領土全体を占領させ、日本の占領地域に「満州国」として「民族独立」し「国家」を樹立しました。満州国は、初めから「民族独立」するために、「日本が表向き占領したことにする」シナリオでした。中心的存在として清朝の皇帝がいましたので、占領直後に、国家独立となりました。「独立国家」となれば、蒋介石にとっては「外国」です。迂闊に戦争は仕掛けられません。
満州事変は、蒋介石が、共産党勢力への軍事鎮圧へ重点を移した後を狙った「巧みな戦略」だったといえます。この時点で、蒋介石が、満州地域の奪回のためには、日本と戦争を起こす必要が出ました。日本との戦争に勝利し、日本からの賠償として、満州内蒙古の天然資源輸出に関する権益譲渡させるしかありません。日本は捨て身で、満州国の「防御壁」を買って出たといえるでしょう。
これが、後の「日中戦争=日本-蒋介石戦争」に繋がります。また、これが、これが、蒋介石政府下で反日抗日運動が執拗に激化した真の理由であり、中国領域内での満州からの輸送鉄道網への攻撃や、中国各地の日本居留民に対する残虐行為、日本軍の兵士の射殺事件が頻繁に起きていた理由です。