南京攻略の真相10-日本兵の写真

南京攻略の真相10-日本兵の写真

東京裁判では、日本に対する「訴因28-中国侵略(Invasion of China)の嫌疑」は取り下げになりました。当時、アメリカ、イギリス、フランスなど連合国は、日本が中国を侵略していない事を認めていました。それにも関わらず、蒋介石が南京大虐殺事件を捏造し、南京に日本兵3名を連行し、強引に有罪にしたのです。日本兵らは無実を訴えて獄中自殺しました。

日本兵らが自殺しなかったとしても、蒋介石に強引に処刑されたでしょう。日本兵を複数名連行した理由は、犯人がたった一人では説得力が無かったからでしょう。蒋介石は、無実の日本兵らを殺して口を封じ、南京大虐殺という捏造事件を世間に広めたのでした。日本は敗戦国でした。国家壊滅寸前の状況であり、日本は冤罪を着た兵士らを守れませんでした。その状況を理解していた彼らは、日本が抗議に出る前に、自ら死を選んでしまいました。裁判で公式に有罪の判決が出ることは、日本の将来にとって大きな不利益だと理解していたのでした。この時、彼らが過酷な拷問を受け、執拗な冤罪自白を強要されたことは言うまでもありません。

アメリカが日本と戦った原因は、蒋介石がアメリカを騙したからでした。蒋介石は、「日本が中国を侵略し、中国人に残虐行為を行っている」とアメリカ大統領とアメリカ市民に訴えたのでした。結果、アメリカは日中戦争(Japan-China War)に参戦したのです。

しかしながら、東京裁判では、裁判が開かれる以前に、「侵略の嫌疑(suspicion of invasion」そのものが取下げられました。この時点で、既に、蒋介石が大嘘を吐いたことが発覚したといえます。アメリカは、日本に対し甚大な被害を与えた後でした。今更、アメリカは自分が間違いを犯したとは世界に公表出来ませんでした。

一方で、蒋介石にとっても、「侵略嫌疑取下げ(the withdrawal of suspicion of invasion )」は隠蔽する必要がありました。そのためには、日本が中国に対して残虐行為を行った「既成事実」を作る必要があったのでした。これが南京大虐殺という捏造事件が生れた真相です。

以下の写真は、当時の日本兵の本当の姿です。世界では、日本が中国を侵略したと誤解している方々が殆どです。しかしながら、以下の様な写真を見れば、日本軍が中国人に対して残虐行為などしていなかった事実にご納得頂けると思います。

昭和13年4月(1938年4月)発行「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)-南京のなごやかさ

記事:

皇軍、南京に入城してより百日、その南京に春立ちかへり、平和の色は日と共に濃やかさを加へゆきつつある。

写真:

寫眞の(右上) やはらかな早春の光みなぎる街路上を、一 人の兵隊さんと二人の子供、お手々つないで楽しい散歩である。
(左上) 南京避難民區に於ける露店茶館の賑ひ。
(右下) 廣東黄浦水雷學校爆擊の壯観。
(左下) 南京の中央路にて、バスケット・ボールに興する我が兵士達である

 

写真拡大-日本兵と中国人の子供の散歩

日本兵の多くは、日本に子供を残して長期に中国に派兵されていました。日本兵は、中国人の子供達を見て、祖国の自分の子供を思い出していたのではないでしょうか。日本兵達は、中国人の子供達とよく遊んでいたようです。当時の写真を見ると、子供達も、日本兵を怖がる様子は無かったようです。

上記も、日本軍による残虐行為は無かった証拠でしょう。もし、南京や他の都市や村々で大虐殺や残虐行為があれば、このような写真は存在しないでしょう。だからこそ、日中戦争(Japan-China War)は、中国侵略では無かったのです。蒋介石から、中国を奪回する為に、日本軍が、表向き、蒋介石軍と戦争をし、各都市を占領することが、「重要な戦略」だったのです。

中国人の子供たちと遊ぶ日本兵ー1

中国人の子供たちと遊ぶ日本兵ー2

 

中国人の子供たちと遊ぶ日本兵ー3

宜昌の中国一般市民が日本兵をお茶で歓迎

上記の記事でも、大量の捕虜と、大量の遺棄死骸について記載されています。襄西作戦の戦果として、蒋介石政府軍側の被害は、遺棄死骸が1万8千体、俘虜が2千7百名。これに対し、日本軍は、戦死者が2百名程でした。襄西と襄東とで、西と東で、二手に分かれての戦闘だったようです。襄西と襄東を合わせると、被害は、遺棄死骸が5万8千体、俘虜四千5百でした。加えて、大砲機関銃5百七十、小銃1万2百、各種弾薬1千27万3千、白米4万3千数俵だったと記載されています。

一方、日本軍の戦死者は西側で2百名でしたので、東西で4百名位だったようです。上記の数字を普通に考えれば、襄西と襄東での戦闘の奇妙さに気が付くでしょう。要は、日本軍と中国軍が戦ったのなら、このような異常な大差が生じる訳はありません。遺棄死骸は、実際には、捕虜を「戦死扱い」で解放したのでしょう。その他の俘虜は一旦施設収容後、解散か新政府軍へ編入させていたとしか考えられません。日本軍も、多少は死者が出ないと、実際には形式的な戦闘だけだった事が世界中に発覚してしまいます。それでも、日本軍の戦死者が、東西で4百名程度では、明らかに少なすぎでしょう。

日本軍は、第二次上海事変の時点で、南部方面では、多くて3万5千人程度でした。その後、日本の本土から兵士が追加されたかも知れません。しかし、軍隊は、各方面に分散されました。中国の南部では、1)揚子江に沿って重慶方面へ進軍する部隊、2)揚子江を越えて中国中部の徐州方面へ進軍する部隊、更には、3)中国南部の広東や海南島本面へ進軍する部隊、4)ビルマ方面で蒋介石の補給ルートを断つ部隊などがありました。これに加え、上海や南京などの主要都市の治安維持で残る部隊もありました。各都市への日本軍の攻撃他部隊は、数千人派兵出来れば良い方で、下手すれば、数百人単位だったかも知れません。普通に考えれば、日本軍が、中国軍(蒋介石政府軍)と本当に戦えば、全滅して当然だったでしょう。

上記の記事も、蒋介石政府軍が、実際には、日本軍の味方だった証拠です。蒋介石政府軍の「戦死扱い」の兵士も、その後の新政府の軍隊へ参加して行きました。日本軍が到着する前に、蒋介石軍は撤退を繰返していました。その際には、蒋介石軍は大量の武器や弾薬を置いて行きました。当然、これらは日本軍を経由して、新政府軍の武器弾薬となったのです。蒋介石政府軍は、撤退の際に、白米など食料も残して行ってくれていた様です。素晴らしい連携プレーとしか言いようがありません。

北支方面ー中国一般市民が日本兵をお茶で歓迎

日本人は、古代、中国人から「倭人」と呼ばれていました。倭人とは、「小さい人」を意味します。上記の写真の通り、日本兵は、中国人市民に比べると、確かに、とても小さいようです。

普通に考えれば、日本軍が中国軍(蒋介石政府軍)に勝てる理由はありませんでした。兵士数も武器数でも、蒋介石政府軍は圧倒していました。そのため、日本は、「歴史写真」などの写真雑誌や、絵画などを使って、「日本軍は非常に強い」と大宣伝していたようです。

写真や絵画であれば、日本軍が非常に強いという大嘘を、欧米諸国の人々にも信じさせることが出来たでしょう。日本と中国は、欧米諸国の自発的な撤退を狙っていたのでした。

漢口で捕虜と正月の餅つき

上記は、漢口の占領後、日本軍の兵士が、蒋介石政府軍の捕虜と一緒に、正月も餅つきをしている写真です。中央の人々の周囲にも、多くの人々が写っていますが、日本兵か中国捕虜か、どちらか解らない状況です。この写真も、日本軍と、蒋介石政府軍が、水面下では、味方同士だった証拠でしょう。

捕虜の収容施設での写真ですが、こうした日本軍との親密な関係性を考えれば、長期に捕虜となっていた中国人兵士は、新政府の軍隊へ編成される予定の人々だったかも知れません。

 

日本人と中国人で仲良く遊ぶ

上記の写真は、白黒の写真に手作業で着色したものです。私は非常に疑り深い人間ですので、「歴史写真」に掲載されている写真は、日本軍による「やらせ」ではないかと疑っていました。

しかし、「やらせ」や「演出」だったにしては、逆に、不可解な点がいくつか挙げられます。例えば、1)親しい関係を示す写真の枚数が多いこと、また、2)写真に写っている人々の顔の表情に、お互いに怒りや嫌悪など「ネガティブな感情」が見えないこと、また、3)中国人も日本人も笑顔が多く、警戒心が感じられないことなどです。そのため、これらの写真の姿が、当時の日本人と中国人の本当の関係を示すと結論しました。

また、上記に加え、私自身が、実際に、日中戦争(Japan-China War)時代に中国で生まれ育った日本人の男性から、同じような証言を聞いています。要は、日中戦争(Japan-China War)当時は、日本人と中国人は実際には非常に仲が良かったようです。

実は、私の隣には、満州で生まれ育ち、日中戦争(Japan-China War)に参戦した男性が住んでいました。生前、その方とは、家族ぐるみの付き合いで、度々、食事や旅行に一緒に行くほど親しいお付き合いをしていました。

私は、過去の戦争を学校で学び、結果、日本人と中国人は敵対的な関係だと思っていました。ところが、その日本人の男性は、中国人が本当に大好きでした。中華料理屋などで中国人を見付けると、自分から中国語で嬉しそうに話掛けていました。更には、彼は、中華料理屋で仲良くなった中国人のカップルに、お祝いとして結婚式の費用を出す程でした。

彼は、折々、私に、「日本人は嫌いだ。中国へ帰りたい。どうして日本と中国はこんな風になってしまったんだろうねぇ。」と嘆いていました。日中国交正常化後は、彼は、度々、中国へ旅行していました。しかし、最後まで、中国へ戻る夢は果たせませんでした。彼は、中国人と日本人が、再び、お互いに暖かい友人関係に戻る事を心から願っていた日本人だったと思います。

戦後、中国では、多くの中国人が日本人の孤児を引き取って育ててくれた事実もありました。私は疑り深いので、それでも、日本人と中国人が仲が良かったなど全く信じられませんでした。その日本人男性の話には、不可解な思いを抱いただけでした。

しかし、後に、当時出版されていた「歴史写真」に掲載される写真を見て、その日本人男性の話が事実だったとの結論に至りました。

 

その他、日本兵の姿

踊る日本兵

上記は、戦闘の合間の日本兵達の写真です。日本兵らと一緒にいるのは、中国人の子供達です。日本軍が、本当に、敵国の軍隊だったのなら、子供らの両親達が日本兵との接触は絶対的に拒絶したはずです。必然的に、こうした写真が取られる状況は生まれなかったでしょう。

結論としては、日本人と中国人は協力関係だったということです。これは、中国共産党との関係も同様でした。日中戦争(Japan-China War)時代、日本軍と中国共産党軍は、実際には、殆ど戦っていませんでした。これは、日本がイギリス(蒋介石)と対立しており、結果、イギリスと対立するソビエト(ロシア)と、日本は水面下では協力関係だった対立構図からも明白です。

風船を飛ばす日本兵

当時の中国では、蒋介石は、南部方面の中国人達に「日本軍が来れば、中国人は惨殺される」というデマを大々的に流していました。そこで、進軍する前に、「日本軍は中国市民に危害を加えたりしません」というビラを、風船で飛ばしていたようです。

写真拡大-子供の様な日本兵

日本が日中戦争(Japan-China War)で勝利していた理由は、中国人が全面的に協力していたからでした。日本軍は、日清戦争も、日露戦争も、歴史的な史実としては勝利しました。当時の日本軍は、確かに、軍隊の統制力も高く、戦術に長けた軍隊だったと思います。

しかしながら、中国人の軍隊は、清帝国の以前から、非常に長い年月の国家間の争いの中で、徹底的に鍛えられて来た軍隊でした。清帝国が共和化した後は、各地に、数十万の大規模な軍閥が割拠し、軍閥同士での戦争も度々起きていました。日本軍の軍事経験値とは、比べ物にならなかったでしょう。中国軍(蒋介石軍)は、本来、豊富な実戦経験を積んだ軍隊でした。

多くの中国人も日本人も、こうした歴史背景を忘れているようです。そのため、殆どの人々が、日本軍が蒋介石軍に圧勝していた「本当の理由」が理解出来なかったようです。結果、蒋介石と李承晩の策略に嵌り、日中戦争(Japan-China War)では、日本軍が大敗したという認識に変わってしまいました。

歴史的な史実として、日中戦争(Japan-China War)では、日本は圧勝しました。日本が圧勝したからこそ、アメリカと戦争となったのです。実際には、全く強く無かった日本軍は、アメリカとの「本当の戦争」で、惨敗したのでした。

 

蒋介石と宋美齢の雪だるま

上記は、中国の中央部へ進軍していた日本兵の様子です。日本兵は、蒋介石と宋美齢を模した大きな雪だるまを作ったようです。おおきな雪だるま(存在)であっても、やがては、消える運命だという意味を込めたようです。

私は、上記の風船飛ばしと雪だるまの写真を見て、これでは、日本はアメリカに負けても不思議は無いと思いました。中国では、中国人が負けてくれたので、勝利していただけでした。

世界最強のアメリカ軍に対しては、日本軍は、確かに、精一杯を尽くし、最後まで決死の抵抗を続けました。満洲国や中国新政府の支援を受けたからこそ、4年近くも、日本は戦争を継続出来たのです。日本は早急な停戦を望んでいました。日本は、アメリカと戦う理由など無いことは理解出来ていたからです。しかし、蒋介石と宋美齢と李承晩が、情報工作を行い、停戦協定が成立を阻止しました。結果、最後は、原爆投下という悲劇で日本は壊滅的敗戦に至りました。

日本も中国もアメリカも、どの様な理由があったとしても、二度と、過去の様な愚かな真似を繰返してはなりません。戦争をしても、国家間の紛争の原因は決して解決しないことを悟るべきです。