南京攻略の真相2-南京攻略
南京攻略(Nanjing Capture)は1937年12月10日から1937年12月13日の4日間で行われました。南京は、蒋介石政府の政府所在地のある大都市です。この都市が、わずか4日間で陥落したのです。蒋介石政府軍と日本軍の軍事力格差を考えれば、絶対に有得ない事が起きたといえます。
昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)-南京城中華門に迫る我が戦車
記事(原文):
大上海を中心とする江南の戦線に、支那軍の大兵数十萬を殲滅したる皇軍 は、世界の戦史に前例なき神速勇猛振りを発揮して一気に敵の首都南京城に殺到し、攻戦僅か四日間にして十二月十三日、遂に是を陥落せしめた。南京は敵が数年来鋭意の防備を堅め、日本軍来るとも、半歳(半年)は保つべしと豪語したるところのものである。
翻訳用途:
大都市上海を中心とする江南の戦線に、支那軍の大兵数十万を殘滅した皇軍 は、世界の戦史に前例なき神速勇猛振りを発揮して一気に敵の首都南京城に殺到した。攻戦僅か四日間にして十二月十三日、ついにこれを陥落した。南京は敵が数年来鋭意の防備を堅め、日本軍が来たとしても、半年は保てると豪語した場所だった。
写真:
寫真は南京城中、最も堅固なる中華門(Zhonghua Gate)に我が戦車隊が肉薄し、猛攻撃を開始すると共に、城門の爆破を企てたる為め、今しも黒煙寒々として渦巻く光景。
南京という都市は、周囲を33kmほどの城壁で囲まれており、都市が1個の要塞のような作りでした。中華門は南京城の南の正門です。Wikipediaの中華門の説明によると、この門だけで、3000人の兵士を配置することが可能であり、南京防衛の要ともいえる場所でした。
日本軍も攻撃したようですが、この城門の突破は極めて困難であり、失敗したようでした。そのため、東側の中山門( Zhongshan Gate)から城門突破しました。
Wikipediaより南京の城壁の写真(明の時代)
出展:Brady Montz – What Nanjing looked like in the Ming DynastyUploaded by MtBell, CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26693653による
以下の写真の左下が中華門((Zhonghua Gate))。右側中央が中山門( Zhongshan Gate)です。日中戦争(Japan-China War)時代も、城壁など都市の構造は、ほぼ同じだったでしょう。普通に考えて、この規模の大都市を、日本軍がたったの4日間で完全占領することは不可能でしょう。この事実だけでも、日本軍が、南京に残った蒋介石政府軍と、裏で繋がっていたとしか考えられません。
上海だけの陥落までに約3カ月掛かりました。一方、首都の南京陥落は4日間のみです。これが余りにも不可能と考えられたため、戦後、日中戦争(Japan-China War)では「日本が惨敗した」というシナリオが長年に渡り信じられていました。しかし、事実は、「日本軍の圧勝」であったのです。「歴史写真」には「総攻撃」や「激戦」の様に書かれていますが、実際には殆ど戦っていなかったといえます。上記の写真の黒煙も、城門の爆破を行った際のものでした。南京の城内では戦闘や、上海での市街地での激戦のような状況は無かったようです。
上海の陥落に3カ月も掛かっていた別の理由として、北京、南京、内蒙古に夫々新政府を樹立する準備期間が必要だったからと言えるでしょう。北部では、北支事変の後、日本軍は、北支那の5省と内蒙古西部全域の要所都市を陥落しました。占領の直後に、日本軍は、各地に中国人による自治の治安委員会(地方政府)を樹立させて行きました。新政府樹立の準備が完了したので、日本軍は、蒋介石政府の潰滅を目指し、政府所在地の南京を陥落しました。
日中戦争(Japan-China War)で、日本軍が圧勝だった理由は、蒋介石政府が、既に自己崩壊していたためです。この政府内部崩壊については公式な資料が出て来ているわけではなく、反論される方もいると思います。しかしながら、蒋介石政府の抱えていた対外軍事資金借款を考えれば、満州や北支地域だけでなく、中国全域で蒋介石の排斥が起きたとしても全く不思議はありません。蒋介石政府では、政府運営費はさておき、軍事費については、ほぼ全てがイギリス、フランス、アメリカからの資金借款で賄っていました。
その上、蒋介石政府では、飛行機、軍用車、タンク、銃器、燃料に至るまで、海外から輸入していました。中国の南部では、鉄鉱石や石油などの天然資源は殆ど産出しないからです。一方、これだけ巨額の軍事借款を返済できる「返済原資」は、農業手工業と対外貿易を中心とする産業基盤では不可能です。だからこそ、蒋介石は北伐や中国統一が必要でした。「返済原資」として、北部の鉄鋼や石油などの天然資源が狙いだったのです。しかし、北部からすれば、蒋介石の軍事借款の返済を肩代わりする必要も理由もありませんでした。蒋介石が勝手に使った軍事費でした。当然、東北の満州や北部からは、当初から、拒絶の動きが出たといえます。
昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)-南京中山門( Zhongshan Gate)に突入
記事(原文):
皇軍の南京攻略戦に先立ち、松井最高指揮官の情理を盡せる降伏勧告状に對し、 暴戻な支那側は遂に是を黙殺するの非禮に出でたる為め、十二月十日午後一時を期し、空陸呼應して 一斉に總攻撃を開始した。
翻訳用途:
皇軍による南京攻略に先立ち、松井最高指揮官は、誠意を尽くすべく、降伏の勧告状を送った。これに對し、 暴戻な支那側は遂に是を無視するという非礼に出たため、日本軍は、十二月十日午後一時、空陸呼応して 一斉に総攻撃を開始した。
写真:
寫眞の(右)は、 爆破されたる中山門( Zhongshan Gate)の城壁傅ひに軍旗を捧じ突入する我部隊
(左上)中山門( Zhongshan Gate)を占據 して南京城內を俯瞰す。
(左下)中山門( Zhongshan Gate)上にあがる萬歳である。
日本軍は、攻撃前に、降伏勧告状を送ったようです。これに蒋介石軍が応じた場合、この戦争が「偽物である」とバレる可能性が有ったでしょう。蒋介石政府軍の方は無視し、日本軍に攻撃させました。また、既に、総司令官の蒋介石は逃亡後であり、軍隊としてはバラバラ状態だったでしょう。
写真拡大ー中山門( Zhongshan Gate)上で萬歳をする日本軍
北支那での万歳写真に比べ、南京の際は、日本軍も人数が多かったようです。この規模の大都市を4日で陥落するなど、普通では起り得ません。日本軍が入城した時には、蒋介石政府軍の兵士は、敵前逃亡したか、城内へ残った者は、ほぼ全員、日本軍に投降したのでしょう。
昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)-南京猛攻擊の壯観
記事(原文):
南京城の城壁は、そ の壯大にして堅固な ること北京城に次ぐもので、敵は此の上に多數の機關銃、迫撃砲等を装備して是に肉薄する我軍を齊射し、必死の抵抗を續けたのであつたが勇猛果敢なる我が將兵は、毫も怯まず、 萬死を冒して殺到し 遂に頑敵を殲滅して首都攻略の偉業を成し遂げたのである。
翻訳用途:
南京城の城壁は、中国では北京城に次いで、壯大にして堅固である。敵はこの上に多数の機關銃、迫撃砲等を装備し、城壁に肉薄する日本軍を斉射した。必死の抵抗を続けたが、勇猛果敢なる我が将兵は、いささかも怯まず、 万死を冒して殺到し、 遂に頑敵を全滅して首都攻略の偉業を成し遂げたのである。
写真:
寫真の(右上)は我が 砲彈、光華門に命中炸裂したる壮観
(右 下) 續々南京に入城せんとする我が部隊
(左)縄梯子や竹の梯子を掛けて高き城壁に攀が登らんとする決死隊の勇士である。
注)毫も:すこしも
写真拡大ー南京の城壁
中国では、各都市は、上記の写真の様な「城壁」で取り囲まれた作りとなっています。外敵からの襲撃に備えて、都市構造が発展した結果です。南京は、南部の主要都市だけあって、城壁はひときわ高かったようです。南京の攻略は、通常であれば、極めて困難であることは城壁を見れば想像に易いでしょう。
この写真ですが、この状態で、蒋介石軍が城壁の上から機關銃や迫撃砲で応戦していたとすれば、日本軍が城壁を登れるはずも無かったでしょう。写真ではハシゴが掛かっていますが、攻略終結後に、再現して撮影したのでしょうか? この写真も、激戦だったという「嘘を演出」しているような感じを受ける一枚といえます。