南京攻略の真相1-上海から南京への占領過程

南京攻略の真相1-上海から南京への占領過程

南京は、昭和12年(1937年)12月10日から12月13日の4日間で陥落しました。南京は、蒋介石の中華民国の首都であり、政府所在地でした。それが、少数の日本軍に、たった4日間で占領されたのです。城門の突破が12月13日午前3時でした。同日の午後1時には、全軍入城。城内で戦闘があったとすれば、半日以下で全都市を占領は不可能だったでしょう。入城後に、戦闘があったとは考え難いです。当然、日本軍の圧勝でした。

上述の背景として、「第二次上海事変の真相」で述べた通り、日中戦争(Japan-China War)とは、中国全土が、蒋介石政府の独裁支配から脱却するための独立軍事クーデターでした。「上海上陸」は、蒋介石政府を潰滅する為の計画だったと言えます。兵力的に極めて小規模で劣勢であった日本軍が、首都南京をそのまま直接、攻撃するのは不可能です。だからこそ、独立軍事クーデーターの決起の場所が、首都の「南京」ではなく「上海」が選ばれました。そして、蒋介石政府軍を、南京から上海へ引き付けるため、上海での戦線を3か月(100日)も継続したのです。

もちろん、蒋介石政府軍の大半は、既に、反蒋介石派でした。ある意味、蒋介石政府軍が中心となって、政府転覆の軍事クーデターを決行したようなものといえます。一方、南京には、蒋介石の政府軍も多数存在しました。日本軍が蒋介石正規軍と正面から戦えば、日本軍には多数の犠牲が確実でした。犠牲どころか、全軍潰滅も起り得ました。そのため、日本軍が、首都南京を攻略する際には、日本軍の被害を最小限に抑えられるよう、事前に、南京から蒋介石政府軍の部隊を出来る限り「移動」しておく必要がありました。その後、上海を完全制圧すれば、蒋介石政府軍が、蒋介石逃亡後の南京に戻る理由は無くなります。

そこで、南京とは500Km程度の距離にある「上海」で軍事決起し、「戦闘状態を長期化」しました。これにより、南京とその周辺に配置されていた蒋介石政府軍を、上海方面に移動させました。南京の防衛力を徹底的に落とす戦略が取られたのです。

第二次上海事変の発端は、8月13日、蒋介石軍による、日本租界に向けた不法射撃事件でした。蒋介石は、この頃から、蒋介石政府軍を上海へ集結させていました。 蒋介石軍と日本軍とでは、極めて大きな兵力差がありました。蒋介石は、一旦戦闘状態になれば、簡単に日本軍が壊滅すると考えていたでしょう。しかし、上海では、有得ない程に、蒋介石軍が大敗を続けました。当然、南京からは援軍が向かったでしょう。この援軍は、実態は、反蒋介石政府派の軍隊でした。蒋介石の命令で、上海へ大量に移動しました。そして、日本軍と「戦った」振りをして、大敗し、武器を置いて逃走を繰返しました。それが日本が圧勝していた理由です。

上海は、蒋介石に取って、欧米諸国との接点ともいえる場所だったでしょう。上海を日本軍に占領されれば、蒋介石は、軍事支援国からの信用を失い兼ねませんでした。何としても「死守」したいところだったでしょう。戦闘が長期化すれば、その分、「援軍」も送り続けるしか無かったといえます。そのため、11月末頃には、南京に配置された軍隊は、通常の配備からすれば相当に少なかったといえます。それが、日本軍が、たった4日間(実質1日)で、蒋介石政府の首都を完全に陥落出来た理由です。非常な「頭脳戦」が起きていたといえます。

昭和13年2月(1938年月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)
-南京死守の第二陣丹陽の占拠

記事(原文):
十一月二十九日、敵の要地常州を拔きたる我が〇〇部隊の片桐、大野兩部隊は、土氣益々昂りつつも、畫夜兼行、生米を噛り、クリークの水を飲んでひた押しに押し進み、十二月二日、敵が南京防禦の第二線として恃む丹陽城の總攻撃を開始した。此時敵は、城壁の銃眼より機銃の齊射と迫擊砲を以て應戰し、その勢い猛烈を極め、我が〇〇部隊長は自ら向ふ鉢巻、竹杖を以て敵前に強行、全部隊を舉げての猛突撃を敢行し、同日夕刻、 大野、西崎兩部隊はその東門を破って突入、一方、助川、野田兩部隊は、夕闇にまぎれて逃ぐる大部隊の殲滅戰を展開し、意氣既に首都南京を呑むの概があった。

翻訳用途:十一月二十九日、敵の要地常州を拔きたる我が〇〇部隊の片桐、大野兩部隊は、士気益々昂りながらも、昼夜兼行、生米を噛み、クリークの水を飲んでひたすら押し進んだ。十二月二日、敵の南京防御の第二線とする丹陽城の総攻撃を開始した。この時、敵は、城壁の銃眼より機銃の斉射と迫撃砲を以て応戦し、その勢い猛烈を極めた。我が〇〇部隊の隊長は自ら向う鉢巻、竹杖を以て敵前に強行、全部隊を挙げての猛突撃を敢行した。同日夕刻、 大野、西崎兩部隊はその東門を破って突入、一方、助川、野田兩部隊は、夕闇にまぎれて逃ぐる大部隊の殘滅戦を展開し、意気は既に首都南京を呑むの概があった。

写真:

寫眞の右下は.燒けたる橋を渡り丹陽城の中正門より入城する我部隊。
左上は丹陽の一風景である。

 

第二次上海事変では、8月23日の第一陣の上陸以降、日本からの「援軍」がその後も各所に分散上陸しました。11月5日には上海南部の杭州湾に上陸します。海岸沿いに金山衛城という都市があり、杭州湾で荷揚げされた物資は、ここから北上する鉄道で、松江(Songjiang)という町を経由して、上海へ送られていました。日本軍は11月8日には松江(Songjiang)へ到達し、上海方面への物資輸送路を掌握しました。これにより蒋介石政府軍への食糧等の物資輸送の遮断が完了しました。

11月12日に上海西部の南翔を占拠し、上海では、市街部及び周辺部に至るまで日本軍が掌握出来ました。そこで、翌日の11月13日から、日本軍は、揚子江上流の白茆口から南京へ向けて進攻を始めたようです。

昭和13年2月(1938年月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)
-敵の”南京の鉄壁”と恃む江陰要塞を占領す

記事(原文):

十一月下旬、常熟無錫を一準に占據して、疾風迅雷、敵を南方に騙逐したる我が田代、兩角の兩部隊は、同月二十九日、敵が永年に亘り巨費を投じ、堅固なる要塞を構築して、『首都南京の鐵壁』と豪語しつつありたる江陰縣に殺到し、田代部隊は南門に、兩角(Morozumi) 部隊は四門に對し、夫々 戰車隊協力の下に、果敢なる猛攻撃を開始し、遂に城縣を占據すると共に、縣城北方二キロの揚子江岸に設けられたる砲臺をも占領し、茲に難なく長江の制水權を確保した。

翻訳用途:

十一月下旬、日本軍は、常熟、無錫を一準に占拠した。疾風迅雷の如く、敵を南方に騙逐した。我が田代、両角の両部隊は、同月二十九日、敵が永年に亘り巨費を投じ、堅固なる要塞を構築し、『首都南京の鉄壁』と豪語していた江陰縣に殺到した。田代部隊は南門に、両角(Morozumi)部隊は四門に對した。夫々は、戦車隊協力の下に、果敢なる猛攻撃を開始し、遂に城縣を占拠すると共に、縣城北方二キロの揚子江岸に設けられた砲台をも占領した。これにより、日本軍は、難なく長江の制水権を確保した。

写真:

寫真の左上は 江陰砲臺を占據しての萬歲で、同砲臺には六センチょり三十センチに至る 大小六十餘門の大砲が林の如く裝備してあった。
又右下は同砲臺 黄山上に立てる我が歩哨で、前方は揚子江の洋々たる流れである。

 

上記の写真も、南京攻略(Nanking capture) でも、日本軍が圧勝していた確固たる証拠です。上海と南京は、ほぼ500KMの距離です。東京から名古屋の距離です。11月下旬、南京攻略の部隊は、揚子江の「常熟」近辺から上陸し、内陸ルートを通って、「無錫」を占拠し、その後、南京方面に進軍します。11月29日には、上海と南京のほぼ3分の1の距離にある「常州」に到達しました。また、揚子江(長江)の対岸にある「江陰」を陥落しを陥落し、長江の制水權の確保に成功しました。

江陰砲台は、揚子江から南京へ、艦隊の進軍を防ぐために設けれらた砲台で、二キロに渡る大規模な要塞でした。ここを日本軍が占領し、蒋介石の海軍(艦隊)が揚子江を北上し、南京へ向かうのを阻止しました。また、12月2日には、日本軍は常州と南京の中間地点である「丹陽」に入城しました。(丹陽は、鎮江にある都市です。)その後、南京には12月8日か9日頃に到達したようです。南京の攻撃は1937年12月10日から開始されました。

上海と南京周辺の地図(インターネットから)

一般的な認識では、1937年の上海上陸の直後から南京への進軍と攻撃が始まったような印象があります。しかし、実際には、日本軍は上海で約3か月留まっていました。南京への進軍は1937年11月13日以降に始まりました。東京ー名古屋間の500Kmを、約1か月掛けての移動であり、進軍のペースとしては非常にゆっくりであったといえます。この間、日本軍が迫ると南京に圧力を掛け続けましたが、蒋介石政府軍の兵士が自ら逃走するのを待つには効果的な時間だったかも知れません。また、南京の一般市民が予め避難する十分な時間を作る目的もあったといえます。