南京攻略の真相4- 蒋介石夫妻の逃亡

南京攻略の真相4- 蒋介石夫妻の逃亡

南京攻略については、日本の敗戦後は、「日本軍が大敗」した前提で、書籍やTV報道など、大量に出版や番組製作がされて来ました。しかし、真実は、日本軍が圧勝していたのです。独裁者として君臨していた蒋介石とその妻である宋美齢は、日本軍が南京へ到着する以前に、さっさと逃亡していました

名目上は、「首都の移転」でした。具体的には、政府機関を、「重慶、漢口、長沙などに分割設置する」との発表でした。しかし、どちらにしろ、首都の南京を放棄し、逃亡したことに変わりは無いでしょう。

日本軍が圧勝出来たのは、蒋介石政府の内部崩壊が理由です。民衆が独裁に耐え兼ね革命を起こし、「独裁者」が国を追われて逃亡するという、典型的なパターンだったといえます。蒋介石は、南京攻略では、自分の軍隊の指揮さえ執らなかったのです。これも、蒋介石政府と蒋介石政府軍の殆どが、既に、反蒋介石派に転じていた為でしょう。敵前逃亡しか選択が無かったといえます。こうして、蒋介石の政府首都であった南京は、たった4日間で易々と陥落しました。

昭和13年4月(1938年4月)発行「歴史写真」
昭和12年2月(1937年2月)-珍しや蒋介石夫妻

(右) 堅子遂に大局を觀るの明なく、 おぞましくも長期抗日を策して、その身は日毎沒落の 一路を辿る蒋介石 とその妻宋美齢。 寫真は昨年十一月 彼等が南京脱出の直前に撮影したる
(左上) 南京避難民區の露店風景。
(右下) 南京自治委員購賣券交換所に集る避難民。
(左下) 杭州にて支那そばに群る人々

上記の写真は、1937年12月10日からの日本軍の南京攻略の際、蒋介石と妻の宋美齢は南京には居なかったことを示す証拠です。記事によると「昨年十一月彼等が南京脱出の直前に撮影」とありますので、11月末までには既に逃亡していたということです。日本軍は11月29日に、南京の手前である「常州」に到着しています。上海の陥落が11月14日頃ですので、蒋介石は、上海が陥落した直後に逃亡していたかも知れません。

当時の南京は、蒋介石政府の政府所在地でした。蒋介石は、中華民国政府軍の最高司令官であるにも関わらず、日本軍との戦闘では自分の軍隊の陣頭指揮を執りませんでした。それ以上に、南京に残ってさえいなかったのです。戦後長い間、南京攻略(Nanjing Capture)では日本軍は大敗したと言われて来ました。しかし、南京攻略(Nanjing Capture)は敵の総大将が敵が到着する数週間前に逃亡した後の戦いでした。どんな大軍でも、総大将が不在で、軍隊を指揮する人間がいなければ、大敗して当然だったでしょう。

日本軍の南京到着が大体12月8日か9日で、戦闘開始は12月10日です。首都移転の発表は11月16日でした。南京では、敵軍である蒋介石政府軍の総司令官が11月中に脱出した。明確な逃亡日は不明ですが、最低でも戦闘開始の10日以上前には逃亡していたのです。

この状況で、総大将に既に見捨てられた残党兵が、南京政府を守る為に命を懸けて戦う理由は無かったでしょう。南京攻略(Nanjing Capture)の際は、大量の兵士が日本軍へ投降し、捕虜となりました。蒋介石軍の兵士が戦闘を放棄した証拠でしょう。そのため、戦闘と言っても、せいぜい一部の残兵軍との小競り合い程度であり、日本軍は殆ど戦うまでも無かったといえます。南京の強固な城壁を少し破壊し、近隣で大きな煙が上がる様に何発か爆弾を爆発させ、残兵軍の兵士に投降を促すだけで十分に陥落出来る状況だったといえます。

北支事変と第二次上海事変は、蒋介石を中国から排斥するために起きた「独立軍事クーデーター」でした。蒋介石政府では、主要幹部の殆どが蒋介石から離反し、水面下では「日本の協力者」となっていたのです。蒋介石からすれば、日本軍との戦争は「負けるはずの無い戦争」だったでしょう。しかし、最も側近で裏切っていたのが、張学良であり、張学良が反蒋介石派を形成し、内部崩壊を画策したのです。蒋介石は、それに気が付かず、人生の最期まで、張学良を親友だと思っていたかも知れません。

上記の「歴史写真」の記事は、当時の南京攻略(Nanjing Capture)で、日本がいかに圧勝していたかを証明する一枚であると思います。

 

写真拡大ー南京から逃亡前の蒋介石

当時、蒋介石は、50歳を優に越していました。上記の写真には、それ以前の写真のような「勢い」は全く見えません。国家を追われた「独裁者」さながら、今にも泣きそうな表情です。

上述の「日中戦争(Japan-China War)の真実」は、日本の敗戦と同時に、葬り去られました。蒋介石は、自分が中国で行った数々の残虐行為を全て日本に濡れ衣を着せたため、日本は非常に長い年月、中国にも、世界中にも、大きな誤解を受けて来ました。本当の歴史は、蒋介石が、北伐後は、イギリスなど欧州諸国の支援を背景に、中国で独裁政治を展開していたということです。民衆が耐え兼ね、蒋介石の排斥に動いたのが日中戦争(Japan-China War)が起きた背景です。

蒋介石と政府軍の敵到着前逃亡

蒋介石政府軍は、日本軍に対しては「到着前に逃亡」を繰返していました。南京大虐殺事件に関するTV特番で「しゃべってから死ぬ」というタイトルの番組がありました(2015年など)。これは「日本軍が大敗し日本兵が逃亡した」というデマに基づき制作された特集番組でした。しかし、実際には、日本軍が到着する何日も前に、敵軍の総大将である蒋介石が「逃亡」を繰返していました。

蒋介石政府軍の兵士にすれば、自分達の守るべき「総統」が自分達を置いて逃げたのですから、当然、その多くが「敵前逃亡」したでしょう。日本軍が南京に到着した際に、南京を「蒋介石」のために守ろうするような兵士など、殆ど居なかったでしょう。増してや、中国人が蒋介石の独裁から解放されるべく起こした戦争だったのです。だからこそ、中華民国の首都である南京が、極めて少数の日本軍により、たったの4日間で簡単に陥落したのです。

 

昭和13年1月(1938年1月)発行「歴史写真」
昭和12年11月16日(1937年11月)-世界日誌(World Diary)

(十六日) 支那國民政府は、今朝南京に於て緊急行政院會議を一通告 開催し、首都移轉を決定政府の機關を重慶、漢口、長沙等に、夫々分割設置することとなり、政府主席林森の移轉すべき重慶」を た以て臨時首都と定めたり。但し 大本營の軍事機關のみは尚ほ南京に踏止まる。

蒋介石政府の首都移転の正式発表は、昭和12年(1937年)11月16日だったようです。蒋介石政府軍の大本営の軍事機関は、そのまま南京に残したようです。南京攻略は12月10日からでした。11月16日は、3週間以上も前です。南京からの脱出(逃亡)は、16日以降でしょうが、これ程早いタイミングで、首都南京を放棄しており、「首都の移転」を公式発表しているのです。蒋介石が大本営の軍事機関として軍隊を残したとしても、既に首都でも無い都市を、命を掛けて守る兵士などいたでしょうか?

蒋介石政府軍では、実際には、殆どが、反蒋介石派の兵士だったでしょうが、蒋介石派には逃亡した兵士達もいたようです。そうして飢えた兵士達が、周辺の民家を襲ったようです。日本軍の振りをしてです。

張学良は、本当に幽閉されていたかは不明ですが、常に蒋介石に同行していたと考えます。南京陥落の時点で、もし張学良が蒋介石を暗殺していれば、そこで日中戦争(Japan-China War)は実質終わり、その後の太平洋戦争も無かったでしょう。しかし、張学良には蒋介石の暗殺は出来なかったようです。日本軍は蒋介石を追って進軍しましたが、重慶、漢口などを攻撃しても、蒋介石は捕まらなかったようです。公式発表されてはいませんが、実際には、蒋介石は、かなり早い時期に、国外へ逃亡していたのでしょう。既に、昭和12年(1937年)12月14日には、北京では「中華民国」の新政府が樹立したのにも関わらず、1943年のカイロ会談では、「中華民国」の代表として出席していました。太平洋戦争は、1941年12月開戦でした。

アメリカで、夫人の宋美齢が「日本が中国を侵略している」と、アメリカ中を巡っては「大嘘」を流布していた時間も考えると、かなり早いタイミングで「国外脱出」したのではと考えます。

 

南京大虐殺事件は捏造事件

蒋介石は、日中戦争(Japan-China War)で完全に敗北し、中国での軍事基盤を完全消失しました。だからこそ、蒋介石は、アメリカが日本と戦うよう仕向けたのです。アメリカ軍を利用するためには、アメリカが日本と戦争する理由が必要でした。

現在、「南京大虐殺事件の証拠」とされる「残虐行為の写真」は、蒋介石が捏造したものです。それらを「日本軍の中国侵略の証拠」だと主張し、妻の宋美齢を使って、アメリカ全土に虚偽を流布して周りました。そうして、アメリカ大統領とアメリカ一般市民に、日本人に対する憎悪と嫌悪を植え付けたのでした。要は、蒋介石は、アメリカを騙したのです。

一方、「歴史写真」という当時の月刊誌に残された「真実」をみれば、南京攻略(Nanjing Capture)の際に、日本軍が南京に市民や捕虜を大虐殺するなど起り得ません。日本軍は、事実として、中国全土を進軍し、各都市を占領はしました。しかしこれは、蒋介石政府から中国全土を「解放する」ためでした。南京大虐殺事件だけではなく、その他、日本がやったとされた残虐行為は、全て、そもそも「蒋介石の悪行」なのです。

歴史の事実として、「南京大虐殺は無かった」と結論します。蒋介石という人物は、自分の政府の首都にも関わらず、日本軍の形勢が有利だと解った途端に、自分達だけさっさと逃亡する人間でした

南京攻略(Nanjing Capture)では、日本軍が南京に入城した際に「8万の遺棄死骸があったと言われているとあります。また、当時の新聞には、「蒋介石政府軍から大量の兵士が投降した」と報道されています。そのため、蒋介石が、逃亡の前後から、日本軍が到着するまでの2~3週間ほどの間に、南京の一般市民や自分の兵士を惨殺した可能性は否定できません。蒋介石の政府軍には、大量の「裏切り者」が居ました。蒋介石がこれに気が付いたとすれば、兵士や市民を惨殺したかも知れません。

一方、蒋介石の側には、常に、張学良がいました。張学良は、政治の表舞台からは消えていましたが、投獄されてはいませんでした。蒋介石政府軍の「裏切り者」は、実質、張学良の配下でした。張学良は、蒋介石の晩年最期まで、表向きは、蒋介石の「友人」でした。蒋介石が南京から逃亡の際には、「友人」の張学良が、蒋介石から、蒋介石政府軍(張学良の配下軍)を密かに守ったでしょう。

当時、南京では、蒋介石政府軍には10万の兵士がいたようです。日本軍が10万人の兵士全員を捕虜にするには多すぎる数でした。そのため、日本軍は、約1万5千人兵士を捕虜として受け入れ、一部は逃亡兵として扱い、その他8万は「死んだ」ことにして「そのまま解放」した可能性が高いでしょう。日本軍にとって、裏切り者の蒋介石政府軍は味方でした。実際に、捕虜だった兵士が、後の新政府の軍隊へ兵士として加わっていました。

 

大虐殺写真の犠牲者は誰だったか

南京大虐殺の証拠とされている残虐写真の犠牲者として、最も可能性が高いのは、中国共産党(China Communist Party)の兵士と市民だと私は結論します。

蒋介石は、中国共産党とは長期に「敵対関係」にありました。これは、蒋介石が、イギリスの植民地化政策での中国側の「手下」だったことが理由でした。イギリスは、当時、バルカン地方でも、ソビエト(ロシア)と対立していました。中国では、イギリスは、蒋介石を使い、北部の天然資源を得しようと目論んでいました。当然、北部のソビエト(ロシア)とは対立関係が生じました。ソビエト(ロシア)は中国共産党を支援し、イギリスは蒋介石を支援していたため、中国では、中国共産党と蒋介石の間で戦争が起きていました。

蒋介石と中国共産党の間では、日中戦争(Japan-China War)が勃発する約半年前、張学良の西安事件まで「10年近い戦闘状態」が続いていました。中国共産党は、決して大きな勢力ではありませんでした。蒋介石の激しい攻撃を受け、張学良の西安事件の頃には、27万程度はあった軍隊は7万人規模まで減少し、消滅寸前だったようです。

蒋介石の残虐さは、数々の歴史事実で証明されています。例えば、蒋介石は、毛沢東の2人目の妻を捕え、処刑しました。結果、幼児だった三男は死亡。長男と次男は投げ出され、数年は行方不明だったと言われています。日本も、大使館襲撃で惨殺や凌辱など多数の被害を受けていました。

敵対する中国共産党に対しては、蒋介石が残虐の限りを尽くしたことは想像に易いでしょう。10年間で、軍隊が約4分の1へ激減しました。20万人程度が殺されたということです。一般市民の党員や家族を加わえれば、更に多数の犠牲者が出たでしょう。蒋介石政府軍による日本大使館襲撃での女性職員のレイプや殺戮の仕方、通洲事件での大量処刑などの実例を考えれば、不思議は無いでしょう。更には、他の中国共産党員への「見せしめ(punishment)」として、軍隊が残虐行為の記録を撮っていたといえます。

満州事変以降は、蒋介石派、反日や抗日の姿勢を強めて行きました。日本との戦争は常に予見されていました。蒋介石が、日本軍の兵士がやったかの様に、写真を演出し捏造したとしても不思議はありません。

蒋介石政府の南部は、北部と異なり、鉄鋼や原油など天然資源は産出せず、確固たる政府財源はありませんでした。戦争に継ぐ戦争で、政府財政は破綻寸前でした。巨額の対外軍事借款を抱えていました。蒋介石政府の保安隊が、一般市民を襲撃し、財産を没収する事件も多数起きていた可能性は否定出来ません。

中国全土が、大規模な軍事クーデターを起こしてまで、蒋介石政府から分離独立を図った大きな要因の一つが、蒋介石による「一般市民への虐殺行為」だったかも知れません。

日本軍は、満州事変以前から、北部の中国人勢力と協力関係にありました。当然、日本軍が協力関係にある中国人を虐殺する理由はありませんでした。上海事変、南京攻略では、日本軍は蒋介石政府の正規軍とも戦争しましたが、一般市民などに虐殺行為を行う状況も理由も必要もありませんでした。

歴史的に見ても南京大虐殺は起り得ませんし、日本軍は中国人に対して残虐行為を行う理由がそもそも存在しません。日本軍は、中国人のお陰で、日中戦争(Japan-China War)で圧勝出来たのです。味方である中国人を惨殺すれば、協力体制など築き様がありません。

一方、当時の中国では、実際に、大量虐殺事件がしばしば起きていたといえます。蒋介石軍での毒ガスや細菌兵器の使用は歴史資料でも確認済みです。必然的に、蒋介石は人体実験も行っていたでしょう。日本は日中戦争(Japan-China War)で圧勝しており、毒ガスや細菌兵器など使う必要もありませんでした。大敗していた蒋介石が開発したであろうことは明白です。また、こうした人体実験の犠牲者も、蒋介石と戦争していた中国共産党の党員や兵士だったといえるでしょう。

蒋介石は、政府完全崩壊の上、国外へ逃亡が必要な程の「潰滅状況」に陥りました。復権を図るため、捏造した写真を、日本軍がやったとする残虐行為の証拠だとして、アメリカ人に見せて、アメリカ人を騙したのでした。全ては、アメリカに日本を攻撃させるためでした。

蒋介石が抱えていた、巨額の軍事借款を考えれば、ここまでやる「動機」が見えます。蒋介石の妻の宋美齢にしても、蒋介石政府の財布であった浙江財閥の一族でした。蒋介石の巨額の借金(軍事借款)は、そのまま、宋美齢の一族の借金でもありました。

蒋介石と宋美齢からすれば、どんなに汚い方法を使ったとしても、中国人や日本人がどんなに死んだとしても、中国を植民地化する必要があったといえます。