満州国建国の真相3ーリットン調査団の満州国訪問

満州国建国の真相3ーリットン調査団の満州国訪問

上海は、蒋介石政府の置かれた南京から至近距離にあり、尚且つ、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、日本などが、多くの外国人居留民を滞在させていた中国の対外貿易の中心的国際都市でした。第1次上海事変は、蒋介石の目を北部より背ける目的と同時に、日本と蒋介石政府との間で「停戦協定」を締結することで、満州への実質的な「不可侵条約」を締結させる目的があったといえます。

上海市街地での戦闘であれば、イギリス、フランス、アメリカといった蒋介石側の支援国にも多大なる被害が及びます。そのため、軍事衝突が勃発しても、欧米諸国が必ず双方に対し早急なる停戦を求めて来るのは必然です。満州方面での戦闘と異なり、上海では蒋介石軍と本格的な激しい戦闘が予想されますが、諸外国からの強い停戦要求により、爆撃や銃撃などの実戦を伴う戦闘は比較的短期で終了出来るといえます。また、南京では蒋介石の政府に対して宣戦布告の意味が出ますが、上海であれば単なる軍事衝突で済みます。蒋介石との軍事衝突は「上海市街地」が最も適していたといえます。

日本と満州の計画した通り、「停戦協定」を前提に、国際連盟からリットン調査団が満州国を訪問しています。

 

昭和7年6月(1932年6月)発行「歴史写真」から
昭和7年4月(1932年4月)連盟調査団の満州入国

記事:

國際聯盟調査團の一行はリットン卿以下先づ上海方面の調査を終わり、引續き新満洲國を視察する爲、四月上旬上海發奉天に向うこととなつたが、是より曩き満州國側は支那參與(参与)顧維鈞氏の同國入國を拒み若し強いて入國するに於ては同氏の身邊(身辺)如何なる變事(変事)の勃發するやも圖るべからざる旨通告するところあり、依て顧維鈞氏は満州に於ては滿鐵附屬地以外に一歩も出でざる事として同月二十日夜支那軍艦海折號に搭じリットン卿と共に大連に入港、かくて調査團の一行は二十一日夜打揃って奉天に到着、我が關東軍司令部に於て本庄軍司令官と數次の會見を重ね、昨年九月満州事變勃發當時の状況に其他に就き質問するところがあった。

写真:

寫眞の右は大連到着のリットン卿と顧維鈞氏。左上は二十二日奉天商埠地に於て満州國政府が武力を以て顧維鈞氏の入國を厳戒しつつある有様である。

注)曩(さき):さき、かつて

 

リットン調査団は、4月上旬に上海を出発し奉天に向いましたが、4月20日まで上陸を拒否されていたようです。理由は、蒋介石政府(支那政府)の代表である顧維鈞の「満州国内での身の安全が確保出来ない」というものです。これは、満州国が満州国として、蒋介石政府の要人の入国を拒否していたということです。蒋介石政府に軍事占領されていたとすれば、当然の反応でしょう。満鉄付属地とは日本の管理領域ですので、皮肉なことに、敵対した蒋介石政府の要人を日本が保護したといえます。一方、満洲国政府は「武力」を以て、顧維鈞氏の入国には厳戒態勢と取っていたようです。

 

昭和7年6月(1932年6月)発行「歴史写真」から
昭和7年4月(1932年4月)最近の満州国から

記事:

上海の抗戦地域を調査し北平(北京)を経て満州国に向うこととなったリットン卿以下國際聯盟調査團の一行は、四月二十一日夜先ず奉天に入り、直ちにヤマトホテルに投宿し、我關東軍司令官本庄中将等と數次の會権を重ね昨年九月満州事變勃發前後に於ける満州の情勢等に就き種々質問するところあり、大體の調査を完了し、五月二日朝奉天發の特別列車に搭乗いよいよ新京方面ン調査の途に上ったが、新京に於ける一行は新政府の大官連と會見して新國家建設の前後事情から關税問題、鹽税問題其外の對外關係及び吉林軍關係に就き微に入り細を穿ちたる質疑を試み、更に同月五日一行は愈々執政府に溥儀執政と會見することとなりたるが、當日各委員等は孰れもモーニング、シルクハットの礼装で執政府に向い、謁見室に於て執政と對面した。

執政は先ずリットン卿以下の各委員に對し婉然微笑を湛えて握手した後、挨拶を述べ、是に對しリットン卿は委員を代表して新國家成立に當り王道政治を施されることは民衆の幸福の爲め感謝に堪えないとの挨拶を陳べ、執政は頗る満足げに是を受けた。かくて一行は同月七日新京發吉林に向い、同九日ハルビンに到着種々調査するところがあった。

寫眞:

寫眞右頁は満州入国に就いて一事政府より拒否された支那国民政府の顧維鈞氏が四月二十三日奉天大和ホテルに於いて調査委員クローデル将軍と密談を交えつつあるところ。左上は四月下旬、匪賊の襲撃を受け危機に瀕したる通化の領事分館及び居留民等救出の爲め選抜されたる二百七十名の警官隊が酒井警部指揮の下に同月四月二十七日奉天を出發せんとしつつあるところ。同下は四月二十一日調査委員の一行奉天到着の當夜同地仏教婦人會の代表者が花束を贈りつつある有様。

注)關税:関税 / 鹽税:塩税 / 穿ちたる:突き通す / 婉然 :にっこり微笑む / 頗る:すこぶる

写真拡大 - 調査委員の一行奉天に入る

昭和7年6月(1932年6月)発行「歴史写真」から
昭和7年4月(1932年4月)最近の満州国から 続き

左ページ寫眞の続き:

又後頁の右上は五月三日委員の一行、新政府の外交総長謝介石氏と會見後、玄關に於ける記念撮影。左は四月下旬の一日、奉天郊外のゴルフ場に一日悠遊する調査員独逸のシュネー博士である。

謝外交総長と連盟調査委員

上記は拡大写真です。満州国の独立については、国際連盟からの調査團が関税問題など様々調査を行っていたことは余り知られていないかと思います。現在の歴史認識では、日本が一方的に満州国を傀儡国家として成立し、猛反対にあったような印象です。しかし、満州国は、その後、国際連盟で承認されなかったとしても、国家として、こうした調査団を迎える体制が整っていたといえます。

 

ゴルフに興じる調査員ドイツのシュネー博士

滞在中は、ゴルフなどの時間もあるほど、「平和的」ではあったようです。

 

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