満洲国建国の真相1-満州平定と満州国成立
満州事変は、1931年9月の南満州鉄道の路線爆破未遂事件から始まり、1932年3月の満州国の建国で収束に至りました。これにより、蒋介石政府の「中華民国」から、中国東北部の満州地域とそれに隣接する内蒙古族(モンゴル族)の東部地域が、国家として、分離独立を果たしました。日本は、清帝国時代からの関係、また、国際経済協力関係から、満州民族側を支援していました。
昭和7年1月(1932年1月)発行「歴史写真」から
昭和6年11月(1931年11月)満州事変ー馬占山の動静
記事:(右) 大敗戦の敷日前チチハル黒 龍江省政府公 署前に於ける。 得意の馬西山。
(左上) 十一月十八日我軍の爲めに徹底的痛整を加へられ全軍總崩れとなり たる黑龍江軍頭領馬占山が戦線視察の光景 (左より二人目)
(同下) 島々溪附近に於ける黒龍江軍第二陣地の有樣で、是等の陣地を我軍 の猛撃に遭ひ一たまりもなく壊滅した。
奉天での満州事変勃発以降、日本軍が満州地域へ進軍していましたが、上記の「馬占山」という人物は、後の満州国建国の際に、最厚生部委員会のメンバーとなった人物です。下の写真の、一番右の人物です。満洲国は、日本が全面支援して建国した国家ですが、満州事変では、「馬占山」率いる軍隊と、日本軍が、「激戦」を繰り広げたことになっています。日本が勝利しなければ、満州地域から「蒋介石の正規軍」を追い出せませんので、馬占山は「大敗」を続けます。また、この時、馬占山は、張学良の下、蒋介石政府軍として参戦しています。後に「初代政府の入閣メンバー」になるほど「信頼関係」のある人物だからこそ、この「トリック」を担ったのかも知れません。
昭和6年11月(1931年11月)時点では、既に、満州地域の北部である黑龍江省まで日本軍が「無事に」占領地を拡大していたのが解ります。
昭和7年2月(1932年2月)発行「歴史写真」から
昭和6年12月(1931年12月)満州事変ー昂々渓駅の占領
記事:
黒龍江軍の統帥馬占山は十一月初旬大興附近の敗戰後、昂々渓及びその南方地区に巨大なる兵力に集中して、我が穏健安當なる抗議を一蹴し、各地の支那軍及び兵匪事每に我軍の行動を妨害し、遂に十一月十七日我軍に對し総攻撃を策し来ったので、我が部隊は自衛的見地より遂に決起し、同十八日俄然攻勢に轉ずると共に忽ち敵の大軍を擊破し、疾風の如き急迫撃を以て同日午後一時先ず完全に昂々渓を占拠し、引続き息をもつかせず急迫して同日夕刻にはチチハルの停車場龍江驛を占領し、午後八時我軍は步武堂々チチハル城に入城、城頭高く日章旗を掲揚 した。寫真は我が先頭部隊が昂々渓を占拠し、驛前に於て萬蔵を高唱しつつある光景である。
上記の記事は、日本軍が、馬占山の率いていた黒龍江軍を潰滅したことを伝えるものです。ここからも、満州国軍が、実際には、「味方」であり、「大敗」することで、結果的に、蒋介石政府軍を満州地域から排除することに繋がったといえます。
昭和7年2月(1932年2月)発行「歴史写真」から
昭和6年12月(1931年12月)満州事変ー戦没者の弔霊と喇嘛教(ラマ教)僧の慰霊祭
記事:
(右) チチハル出動を命せられた鈴木混成旅團長は、その途次大興に於て新發田旅團戦歿者の霊を弔った。寫真 は墓前に禮拝する鈴木旅圏長以下幕僚である。
(左) 奉天七等の喇嘛教僧侶(ラマ教僧侶)達は十一月二十九日、這次の事變に於て戦歿した る日本軍將士の忠霊塔前に集り、いとも厳かなる慰盤祭を行ったが、物 々しい長旗や、作り物、異様な樂器 を吹奏しての供養振りは一奇觀で、 是を見んとする多數の見物人押寄せ 非常な賑ひであつた。
上記の記事は、奉天のラマ教の僧侶達が、満州事変での日本兵の戦没者の慰霊祭を行ったことを伝えるものです。日本が、満州(中国)を侵略していたのなら、現地の僧侶たちが、このような大規模な慰霊祭を、わざわざ日本人のために開催する理由はありません。
昭和7年2月(1932年2月)発行「歴史写真」から
昭和6年12月(1931年12月)満州事変特集-敵前夜営の我軍
満洲での戦闘は、極寒の中で行われました。上記は、雪の中で夜営する日本軍の写真です。当時の写真は、白黒であり、満州の寒さが良く解りませんが、この写真はカラーであるので、満州の寒さが良く伝わると思います。当時は、カラーは手作業での着色だったため、貴重な一枚かと思います。日本軍の死傷者は、病死や凍傷が非常に多く、実戦で亡くなった人々はそれ程多くなかったと考えます。
昭和7年3月(1932年1月)発行「歴史写真」から
昭和7年1月(1932年1月)満州事変ー野戦病院列車に於ける我負傷者の収容と手当
上記は、満州事変勃発以来、1月中旬までの日本軍の総損害として、戦死者が300名を超したことが書かれています。負傷者は1000人を突破したようです。軍事兵力差が数十倍(30倍)の敵軍との戦いにしては、日本軍の被害が少な過ぎます。全滅にならなかった事が「不可解」であり、当然、水面下での「協調体制」があったと言えるでしょう。
昭和7年4月(1932年2月)発行「歴史写真」から
昭和7年2月(1932年2月)‐皇軍のハルビン入場
記事:
一月下旬に至りハルビンに 於ては丁超の統率する反吉林聯合軍漸く跳梁し始め、 形勢次第に悪化すると共に 多數の在留邦人は就れも危険に曝さるるの有様となつ たので、長春駐屯の我部隊 は一月二十八日より長谷部〇團を先發として多門中將 の第〇〇團績々出動したが 東支鐵道南部線列車不通の 爲め、進軍極めて困難を極 めれるも、而も我軍は踴躍前進し、二月三日双城堡の激戦に敵を潰走せしめ、同五日ハルビン郊外の戰闘に大勝を博し、同日午後多門〇團長を先頭に我軍は堂々ハルビンに入城した。
日本軍は、昭和7年(1932年)2月5日のハルピン入城を果たします。満州国の独立宣言が、昭和7年(1932年)2月18日です。その2日前には、建国会議が開かれ、閣僚の正式発表がなされています。ハルピンで戦った「丁超」という人物は、奉天出身で、奉天派の軍人であった人物です。当然、この人物も、張学良の直属の配下ともいえる人物だったといえます。「大敗」し、日本軍に捕えられ、釈放された後に、満州国では「要人」となったようです。
ハルビンは満州北部(黒竜江省)の政治経済の中心都市であり、この都市を日本軍が占拠することは、黒竜江省全域を実質掌握したことと同じ意味を持ち、同時に、これにより満州国独立の準備が整ったことを意味しました。清帝国皇帝であった愛新覚羅溥儀が1932年2月18日に独立を宣言し、1932年3月1日を建国日とし、これを以て、蒋介石の中華民国(蒋介石政府)より国家として完全な分離独立を果たします。
一方、蒋介石はこの動きをけん制する為、抗日反日運動の激化や日本人居留民の無差別的な襲撃を繰返していました。日本軍は、日本軍は1932年1月28日頃より満州北部のハルビンへ攻撃を本格化し、ほぼ同時期、1932年1月28日に、遂に、第1次上海事変と呼ばれる日本軍と蒋介石軍の戦闘状態に突入します。第1次上海事変は、満州国を確実に独立に導くための「もう一つの戦略」だったのです。
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