日本軍の圧勝の真相10-済寧城と曲阜城の陥落
昭和13年(1938年)1月は、済南の占領後、南にある済寧に進軍しました。日本軍は、8月8日の北京無血開城を果たし、9月から鉄道網に沿い、3方向に分かれて進軍しました。南側は、西が石家庄⇒太原方面、東が済南⇒徐州方面です。
昭和13年3月(1938年3月)発行 「歴史写真」 から
昭和13年1月(1938年1月) 済寧と曲阜の占拠
記事:
(右上)韓復集軍蟠踞地帶の咽喉を扼する堅城として、敵が必死の抵抗を續けた講鎌縣城は、一月八日以來、我が桑田、沼田兩部隊の猛攻に依り、同十日午後三時十分逐に陥落し、埃頭高く日章旗が蘇った。寫真は掛寧目蓮けて進擊 する我が砲兵隊。
写真:
(右下) 講寧城の城壁に攀号登る我が勇士である。
(左上)大聖孔子生誕の地曲阜縣城は、一月四日、泰安方面より南下し來った福榮部隊に依り、一兵をも損することなく、完全に占據せられ た。寫真は今何は残る孔子廟の大建築物で、莊嚴正に驚くべきものが ある。
(左下)曲阜入城部隊の本部に充てられた明德學校の正門である。
写真拡大ー済寧城の城壁に登る日本兵
済寧という都市も、この写真の様な非常に高い城壁に囲まれています。本当に戦闘が起きていたのなら、「一兵をも損することなく」占領など有得ません。講鎌縣城という都市も、1月8日に攻略開始で、1月10日に陥落占領です。日本軍は、蒋介石政府軍に比べれ、本当に少数でした。城内の一般市民が反撃に加われば、一瞬で壊滅します。この陥落が、いかに有得ないかは、中国人の皆様が一番よくお解りでしょう。
済南と済寧の位置関係
中国北部での済寧の位置
写真拡大ー曲阜城の部隊本部の正門
上記の写真は、日本軍が入城の際に使わせて頂いた明徳学校の正門です。曲阜城という都市は、孔子生誕の地のようです。孔子の教えは、やはり日本人の思想の基本の一つですよね。人を大切にすることを、いつも心がけないとです。当時の日本兵であれば、孔子学の地へ行けてとても嬉しかったと思います。私も行ってみたいです。
写真拡大ー孔子生誕の地、曲阜城の孔子廟
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日中戦争での日本軍の行軍と本当の歴史については、必ず、訂正されるべきと思います。このサイトでは、特に日本軍の行軍に関して、出来る限り多くの写真を紹介したいと思います。
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