新支那中央政府樹立の真相8-汪兆銘の各地訪問

新支那中央政府樹立の真相8-汪兆銘の各地訪問

汪兆銘は新支那中央政府の樹立後、北部の張家口、北京、南部の広東、蒋介石が政府を移したといわれる漢口、武漢などを訪問しています。一般的な歴史理解では、汪兆銘の政府は、日本の傀儡政府であったため、中国の民衆の支持を得られなかったとされています。しかし、「歴史写真」が伝える当時の真実としては、汪兆銘は中国全土で熱狂的な歓迎を受けるほどの支持を得ていました

汪兆銘の新支那中央政府については、敵対していた蒋介石が、その存在を抹消しようとしました。日本の敗戦後、中国に戻った蒋介石は、真っ先に徹底的に汪兆銘の政府を否定し、要人の粛清は元より、こうした写真など資料についても徹底的に廃棄焼却したようです。そのため、事実は闇に葬りさられ、新支那中央政府の要人は、当時の中国共産党が逮捕処刑した様な印象にさえなっています。しかし、この政府を抹消したかったのは、蒋介石です。蒋介石の悪政の生き証人であったため、新支那中央政府の要人を処刑し、口封じを図る必要があったのです。

しかし、嘘はいつか発覚するものなのでしょう。日本には、こうした月刊誌が辛うじて何冊か残っており、蒋介石にとって「恥辱」ともいえる真実が日の目に当たることになったのですから。


昭和15年6月(1940年6月)発行 「歴史写真」 から

昭和15年4月(1940年4月) 汪精衛(汪兆銘)氏の動静(4)

記事:

汪精衛主席代理は、四月十七日、抗日第二の首都たりし思ひ出の漢口を訪問し、民衆の熱狂的歓迎を受け、我が陸海軍最高指揮官及び支那側要人と會見し、又ラチオを通じて武漢地方の支那民 に對し和 國の熱意を披瀝した。

写真:

寫眞の
(右上)四月十八日漢口中山公園にて重慶脱出以來最初の街頭演說をなす汪精衛氏。
(左上) 漢口到着の宗氏。
(右下)新國旗を翳して汪氏を歓迎する漢口の女學生。
(左下)中山公園に於て異常なる感激と昂奮の裡に汪氏の演說を傾聽する民衆である

 

写真拡大ー演説に熱狂する漢口市民

 

ここでも、蒋介石の捏造した「戦後シナリオ」が、事実と大きく異なっていることが解ります。漢口や武漢は、南京での攻撃前に、蒋介石が敵前逃亡した後、政府を移したとされる都市です。最終的に「重慶政府」があったことになっています。政府が移ったため、蒋介石を受入れたという意味で、漢口も武漢も重慶の民衆も、蒋介石を強く支持する立場であったという印象になっています。

しかし、実際には、上記の写真記事の通り、漢口でも、武漢でも、蒋介石は一般大衆には全く歓迎されていないばかりか、その独裁により既に「嫌悪された存在」だったといえます。そうした、蒋介石への反発が無ければ、蒋介石と敵対していた汪兆銘の演説に対して、ここまでの大観衆が集うことは無かったでしょう。

戦後の台湾がそうであったように、イギリスの強大な軍事力と経済力を背景に、蒋介石は、通常の態勢が「独裁」、というより、恐怖政治に近い状況だったといえます。これは、蒋介石は、邪魔者は徹底的に粛清するタイプの人間だったからです。張作霖は元より、孫文についても蒋介石が暗殺した可能性は非常に高いです。その上、暗殺した後も、暗殺した相手の権威を利用するという卑怯さでした。

写真拡大ー歓迎する漢口の女学生

ここでは、漢口の女学生が、新支那中央政府が掲げた「青天白日満地紅旗」を手にしています。上記の写真では判りませんが、新支那中央政府では、旗の上に、和平、反共、建国の6文字が書かれていたようです。

現在の歴史では、汪兆銘は、国民の支持が得られなかったとされていますが、これも蒋介石が自分に有利な「戦後シナリオ」のために捏造した嘘です。上記の写真をみれば、一目瞭然でしょう。

 

昭和15年6月(1940年6月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年4月(1940年4月) 汪精衛(汪兆銘)氏の動静(2)(北京)

(右上)四月 八日、汪精衛(汪兆銘)氏の北京西郊飛行場到着で 左は汪氏、中央は出迎の王克敏氏、右は 王将唐氏
(右 下)同日午後七時多田北支派遣軍最高指揮官が汪精衛氏一行を官邸に招待し、多田指揮官挨拶しつつある有 榛。
(左)同日 午後四時、汪精衛氏が多田最高指揮官をその官邸に訪問し、全然人を遠ざけての會談一時間の 後、今しも退 出せんとする ところである

 

上記は、新支那中央政府の樹立後、汪兆銘が北京を訪問した際の記事です。南北の代表の明るい笑顔を見れば、中国人が中国人のために作った政府であることはご理解頂けるのでは無いでしょうか?

戦後の一般的歴史理解では、汪兆銘を中心とする新支那中央政府は、「日本の傀儡政府」と言われています。しかし、傀儡とは「意思に反して操り人形の如く動く」という意味です。また、なぜ、他国の傀儡国家、傀儡政府となるのかですが、当然、それは、言い成りにならざるを得ない理由があるからです。端的に言えば、国家として、他国に「巨額の負債」を負っている状況があるということです。

例えば、イギリスと蒋介石の間には、返済不可能な金額の軍事借款がありました。植民地化では、最終的には、その負債のために国家と民衆が合法的に奴隷化するのです。インドもハワイも東南アジアも、民主化に向け革命を起こした人物と、軍事支援した欧州各国との間には、軍事借款契約がありました。これが「言い成り」になる政府=傀儡政府が生れる理由です。

一方、満州国も当時の中国北部も、鉄鋼や石油など豊富な天然資源が産出され、財政基盤は強固でした。日本に多額の軍事借款をする必要はありません。そもそも、日本が単独で中国を占領など不可能な話ではありますが、当然、彼らが日本の言い成りになる理由も必要性もありません。

この新支那中央政府は、中国が、中華人民共和国へ至る「過程」として、再評価、再検証されるべき歴史であると思います。イギリスによる本物の傀儡政府の主席だった蒋介石の立場を考えれば、敵対していた北京政府や汪兆銘の政府を日本の傀儡政府にすることで、イギリスと繋がっていた自分を正当化したのです。

蒋介石が戦後歪曲した歴史が、訂正されることを願うばかりです。