北伐の真相2-蒋介石の北伐

北伐の真相2-蒋介石の北伐

1925年3月に孫文の死後、蒋介石は「中国南北政府の統一」を目指し「北伐」という軍事侵攻を行っています。一般的な歴史では、「北伐」は孫文が生前に、2度、計画をしたことになっています。これは孫文が明治維新を評価していたことを考えると、本当に「北伐」を企画したか非常に疑問ですが、現在の歴史では、蒋介石以前に孫文が「北伐」を2度計画したことになっています。そのため、蒋介石の北伐は、孫文の意志を継いでの3度目となっています。

辛亥革命後、第3回目となる、この蒋介石の「北伐」は1926年7月に宣言されています。孫文は前年1925年3月に没していますが、蒋介石はこの間、自らを政権の長とする軍閥政府の確立を図ります。そして、北部への軍事進攻に先立ち、先ず、武漢、上海、南京など南部地域の主要都市を軍事占領して行きました。孫文の側近達を粛清したのは、彼らは「北伐」など軍事的な衝突に賛成では無かったからかも知れません。

当時の中国は、孫文率いる南部が、「中国民主革命」を主導し、清帝国終焉後、「中華民国」という中国全体での統一新国家を設立した印象が非常に強いですが、実際には、「辛亥革命2ー孫文と袁世凱」で述べた様に、清帝国の滅亡も新国家の設立も北部の北京政府を樹立した袁世凱がほぼ単独で行い、南部は一度は独立宣言したものの、袁世凱に鎮圧されて国家は崩壊、その後は、清帝国時代と同様、北部政府が南部政府を統治下に置く体制が継続していたのが実情ではと考えます。

北部では、袁世凱以降、北京政府が軍閥政府として確立していきます。北京政府内での派閥争いはあったとしても、一つの政府としては比較的安定継続していたと言えます。これは、清帝国は滅亡したものの、清王朝はその後も1924年10月の「北京政変」までは続いていた為でしょう。この北京政変を期に、政権がそれまで続いた直隷派より、安徽派へ移ります。「北京政変」を起こした馮玉祥(ふう ぎょくしょう)が直隷派だったことが理由ではないでしょうか。政権は安徽派へ移り、清の王朝は、日本の保護下で継続されるに至ったのが実情だったのではないでしょうか。南北での大きな内乱を回避するには、清国の朝廷を一旦は終焉する必要があったのでしょう。これにより、革命派の大義名分を潰す目的だったかも知れません。

これに対し、南部政府では各地域で臨時政府が各地で夫々に成立し、また解体しを繰り返している状況であり、一つの政府を国家と見なせば、小国家の乱立や分裂が生じていたといえます。更に言えば、南部地域は、一旦は独立宣言はしたものの、袁世凱が再統一した以降は、北部の北京政府の統治下にあったといえます。そのため、蒋介石は、「北伐」を行うに当たり、この南部の分裂した勢力を統一する必要があったといえます。

これを受け、北部政府では、奉天派の張作霖が台頭し政権を掌握するようになります。1927年3月(昭和2年3月)には、中国南支(揚子江以下の南部領域)での戦闘に敗北し、張作霖は一時総司令官辞任の話も出た様ですが、これ以降、南北政府間の戦闘が北部に向かって拡大する中、張作霖を総司令官とした北京政府軍(安國軍)の体制が整って行ったようです。

昭和2年7月(1927年7月)発行「歴史写真」から
昭和2年5月(1927年5月)支那動乱

以下は、当時の北京政府軍の構成についての記事となっています。

記事:支那の南方國民革命軍は五月十四日その總指揮官蒋介石氏の命令一下全線一齊に攻撃を開始したるに依り、張學良氏等の奉天軍、張栄昌氏の山東軍、及び そ孫像芳軍等は鄭州、徐州、准安の線を根據として是た邀へ戰闘數日に亙ったが、革命軍の勢力旺盛にして北軍は漸次壓倒せられ、 加ふるに陝州方面に在りて時機の至るを待ちつつあった馮玉祥軍 俄然奮起して洛陽を襲ふに及び、北軍 悉く利あらず遂に北京、天 津の危急さへ報ぜらるるに至ったから、帝國政府は居留民保護の目的を以て断然山東出兵を決行することとなり・・・

写真右上:張作霖(安國軍總司令官)
写真上中:楊宇霆(安國軍總參謀)
写真左上:韓麟春(奉天軍=安國軍将軍)

写真中央:日本軍の青島上陸
写真左下:山東における帝国軍(日本軍)の行動を策する鈴木参謀総長

この時、日本は奉天派の張作霖だけを支援していたのではなく、北京政府そのものを支援していたといえます。この背景としては、前年の1926年7月に南部の蒋介石が「北伐」を宣言し、翌年には上海と南京を軍事攻略し、その後、中国の中原地帯(黄河と揚子江の間の領域)を軍事支配下に置きつつ、北部の北京へ迫ってくる状況があったことが大きな要因と言えます。山東(山東省)は日本が当時の中国との国際貿易の拠点として多額の投資をしていた地域でした。多数の在留日本人の保護を、劣勢である北部政府軍には頼れなかったといえます。

蒋介石が北伐を行った真の理由

南部の蒋介石の政府の経済基盤は、地理的には、中国南部の広い農耕地帯を中心とする地域です。主要産業は、農業や漁業や手工業などが中心であり、鉄鉱石や石炭や石油などの天然資源の産出はそれほど多くありません。一方、満州や蒙古のような中国北部は、亜寒帯(冷帯)の寒い気候ではありますが、鉄鉱石や石炭や石油などの豊富な天然資源に恵まれた土地です。中国の長い歴史では、北部の異民族に、南部の漢民族が征服支配される時代が殆どですが、これの大きな理由が北方部での鉄鉱石や石油などの天然資源により、南部よりも製鉄などの技術が発展し戦闘に有利であった事が挙げられます。また、南部と北部での財力的な差としては、鉄鉱石などの天然資源の豊富な北部の方が豊かであったといえます。特に、日清戦争以降は、日本が北部満州地域で産出する天然資源の最大輸出先となっていたことは言うまでもありません。

蒋介石の南部政府は、上海など海外貿易都市もあり一見栄えているようで、武器等を製造するにも原材料の鉄鉱石が不足しており、北部からの分離独立戦争では、殆どの武器兵器をヨーロッパ諸国、特にイギリスからの輸入に頼らざるを得なかったといえます。しかし、南部の農業地帯の経済規模では、高価な武器兵器の購入は容易では無く、孫文の支援者だった浙江財閥を利用して、イギリス、フランス、アメリカなどの欧米諸国から多額の軍事借款を受けていたと言えます。この資金の流れは歴史の表では殆ど語られない事実と思いますが、この多額の軍事借款の返済のためにも、蒋介石は北伐を行わざるを得なかったといえます。

蒋介石は、歴史上は「孫文の意志を継いで」と「北伐」を行ったという話になっていますが、蒋介石の経済事情を考えれば、孫文が本当に北部へ向かったの軍事侵攻を望んでいたかは疑問が残ります。蒋介石がイギリスの軍事支援を背景に、北部へ軍事侵攻を開始するに当たり、大義名分として「孫文の意志」だったのでは無いでしょうか?孫文は亡くなる前年に北京へ赴いています。孫文の人格や思考傾向を考えれば、北部政府とは平和的な融合を望んだのではないでしょうか? イギリスと手を組んだ蒋介石にとっては、北京へ出向いた孫文に平和的な中国政府統一を達成されては、北部への軍事侵攻の大義名分を失ってしまいます。可能性ではありますが、蒋介石が孫文を暗殺しようと目論んだかも知れません。

一方、蒋介石の南部政府は、辛亥革命以降、既に、イギリスとの多額の軍事借款を抱え、北部の天然資源を返済原資として手中に収めたかったといえます。また、これに成功すれば、イギリスは中国の植民地化をほぼ達成できる状況になります。満洲国や北京政府は日本の傀儡政府と言われていますが、南部の蒋介石政府は正にイギリスの傀儡政府だったといえます。

日本は、この当時は、中国の満州族と漢民族との南北戦争には関与しない姿勢を貫いていたといえます。日本が中国に進出するメリットは、東シベリア~満州東北地域で「天然資源を確保」することだけです。南部の農業地帯は特に必要はありませんので、日本の北部での経済進出が妨げられない限り、中国政府側の政治体制に特に関与する必要は無かったといえます。一方、蒋介石の方は、日本が得ていた満州での経済的利権を手中に収める意図から、反日抗日活動で民衆を扇動したり、日本人の居留一般市民を襲撃略奪惨殺を繰返すなど、「日本の経済進出の妨害工作」を続けていました。しかしながら、蒋介石軍の軍事規模や兵力からすれば、日本が戦争をしても勝てる見込みは全くありません。そのため、蒋介石からの残虐な襲撃には耐えるしかなく、この当時、日本が軍隊を中国に派遣していた理由は、あくまで在留日本人の安全確保のためだったといえるでしょう。