02ー中国史の基礎知識

02ー中国史の基礎知識

中国の歴史は四千年以上と言われています。しかし、現在中国と呼ばれている国には、外見はアジア人で同じに見えても、日本人が中国人と文化が異なる様に、それぞれ文化の異なる民族が存在して来ました。

その中で、中国中央地域を領地として来たのが、いわゆる純粋な中国人である「漢民族」。その地域を取り囲むように、他のアジア系異民族が存在しています。アジア系他民族とは、例えば、「モンゴル族」、「チベット族」、「ウイグル族」、「ツングース族(満州族)」などです。そして、中国の歴史のほぼ4分の3の時代は、それら4つの周辺アジア系の異民族のどれかに属する勢力が、中国の中央本土にいる漢民族を統治していました。中国での王朝は、日本の様な独立王朝ではなく、その殆どが征服王朝だったのです。

中国の長い歴史において、純粋な中国人(漢民族)による王朝は実に3王朝しかありません。最初の「秦」と前漢後漢の「漢」とその後の「明」の3つです。日本人は基本的に単一国家単一民族の国ですので想像し難いかも知れませんが、これは、日本が朝鮮やベトナムの支配下にあったようなものと考えれば想像しやすでしょう。

中国の中央地域を掌握した国々の多くは、例えば、モンゴル族による異民族統治国家であった「元」が一時期はヨーロッパにまで領土を拡大した様に、東南アジアや朝鮮半島などの周辺国家を「属国」として支配下に置いていました。 中国最後の征服王朝となった「清帝国」も、女直族(満州族)という中国の東北の地域、世界地理でいうと北朝鮮の上の方を発祥とする民族による異民族統治国家でした。

清帝国の異民族支配

清帝国は1616年に満洲において建国されました。その後、中国漢民族の国である明帝国を1644年に滅ぼし、1912年の辛亥革命で滅亡するまで約300年程続いた中国東北部の満州族による征服王朝でした。清帝国もまた、チベット、ウイグル、蒙古(モンゴル)、東南アジア、朝鮮半島などのアジア周辺国を、属国として、また自国の一部として、統治下に置いていました。日本が中国に進出した時代は、中国全土はこの清帝国の支配下にありました。

中国の歴史では、異民族支配の政権が弱体化する度に、支配下にあった漢民族による国の奪回工作が常に行われていました。中国の国家の変遷は、中国中央地帯を巡って、異民族国家間の支配と独立の履歴と言えるでしょう。中国漢民族が挽回し統治者となり、その国を、また周辺異民族が侵略し支配する。そして、その国を、また別の周辺異民族が侵略し支配下に置く、それを、また中国漢民族が奪回する、これの繰り返しです。そうした他民族からの支配と独立の歴史の中で、国内では度々謀反や内乱が起き、統治者である中央政府の勢力が勝っていれば国は継続し、弱体化し劣っていれば国は転覆し新たな国に変わって行きました。

清帝国の時代も例外では無く国家は常にそうした危機を抱えつつ存続していました。しかし、清帝国以前までは、中央政府の勢力を弱める要因は、その政府の国家統治政策の失敗が大きかったといえます。例えば、自国領土内の国内の経済の安定化の前に周辺国の侵略戦争を繰返すなどです。侵略戦争では他国の経済を吸収することで、国益を一時的に上げる(国家財産を得る)ことは出来ますが、労働者の大量喪失や産業の停止などが生じ、長期的には国内での生産体制が国家経済を支えるほど強化して行きません。

清帝国でも、反乱鎮圧などは起きていましたが、弱体化の大きな要因は、当時のヨーロッパ諸国によるアジア中国地域への進出(アジアの植民地化)でした。清帝国末期は、そのような歴史背景を受け、異民族統治国家であった清帝国が弱体化の一途を辿る中、中国漢民族の中に独立の動きが少しずつ激化して行き、やがて民族独立運動に発展して行きました。そして、その民族独立運動の中心となったのが「孫文」という中国南部の漢民族出身の人物であり、日本が中国で戦うようになった理由を作った人物といえるでしょう。

 

 

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