南京攻略の真相8-平和を取り戻す南京
当時の日本は、中国では、南部よりは、北部の方が関心が高かったようです。「歴史写真」でも、南京方面の記事は掲載は北部より少ないようです。以下は、日本軍による南京の占領した直後を伝える貴重な記事の一枚といえるでしょう。
昭和13年4月(1938年4月)発行「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)-皇軍の温き慈愛の手に抱かれて(南京方面)
記事:
敵の首都南京一たび皇軍の手にするや、治安は忽ちにして維持せられた。傷病兵はもとより、多数の避難民孰れも手厚き治療や救護を受けて蘇生の思いをなした。けふ此頃の南京は正に一陽來復、平和の氣漲りあふれた感がある。
写真:
寫眞の(右上) 皇軍の慈愛に浴する支那軍の傷病兵等、何の不安も苦悩もなく、日なたのひと時を享樂してみる。
(左上) 南京城外の畑にて父子仲よく鍬を執って働く支那の農民等である。
(右下) 南京の戦禍免かれ難しと見て、逸早く都落ちした支那人等、己が古典巣に立ちかへると傳へ聞き、喜び勇んで歸り來れる有様。
(左下) 戦火に破壊されたる家屋を復興すべく、工を急いでみる支那人大工の労役振りである。
写真拡大ー南京城外で働く支那の農民等
日本軍が南京を占領した後は、南京ではようやく都市の治安が戻り、中国人の一般市民も日常の生活へ戻っていきました。
写真拡大ー日光浴する蒋介石政府軍の傷病兵
上記は、日本軍の捕虜となった、蒋介石政府軍の傷病兵の写真です。写真の通り、捕虜の兵士達が、病院の入口に、好き勝手に座っています。捕虜達の中に、敵軍に捕えられた緊張感や恐怖は感じられません。これだけ大勢に対し、監視の日本兵もたった一人ですし、全員がいつでも逃げれる状況で、誰も逃げなかったということです。
写真拡大ー南京へ戻る中国人市民
南京攻略(Najing Capture)では、日本軍は、上海方面から南京までは途中の都市の陥落も含め、1カ月近く掛けて南京に到着しています。これは、当然、南京の一般市民が、南京城内から、城外や周辺地域に、予め避難するに十分な時間を与える目的もありました。蒋介石は、日本軍到着の3週間前には、遷都を発表し、少なくとも10日以上前には、逃亡しています。この状況であれば、一般市民の殆どは、日本軍の到着前に、城外へ避難出来たのではないでしょうか? 南京を捨てて、他の都市へ向かった人々もいたでしょう。日本軍の占領後は、そうした人々も、次々に南京に戻り、南京は新政府の下で復興に向いました。
昭和13年4月(1938年4月)発行「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)
-南京避難民区の和やかな露店風景
記事:
難攻不落を誇る敵の首都南京も、皇軍の猛攻撃に遭いては、一たまりもなく陥落し、城の內外、敵の遺葉屍體無慮八萬餘と註せられたが、皇軍一たび入城するや、さしもの惨鼻目た蔽ふ戰場も忽ちにして清掃整理せられ、あらゆる秩序は回復し、治安は維持され、戰火に脅えたる市民達も、 我が將兵の 溫き救いの手に抱かれて、各々その業を取戻し、我軍占據後既に二ヶ月餘を閲したる南京市中は、今や全く舊(旧)に倍する賑わいを呈してゐるのである。
写真:
寫真は同市內避難民區に於ける露店風景で、花瓶、壺、香爐、古靴、皿、小鉢の類た路傍に並べて、客を待つ中年の女房と、 その傍の小兒の姿に、春の光は和やかである。
南京では、敵の遺棄死骸が、城壁の内外に8万以上も放置されたようで、ここでも記事になっています。南京の陥落後は、大規模な慰霊祭が執り行われましたので、たった4日間でも、蒋介石政府軍、日本軍、共に相当な犠牲者は出たと思います。ですが、例えば、東京大空襲のような大規模な空襲でも無い限り、小規模部隊の日本軍が、10万の兵の大半を戦死させるような事は不可能でしょう。
そのため、もし本当に遺棄死骸が放置されていたのであれば、司令官を失った蒋介石政府軍が混乱しパニック状態に陥り、逃亡する味方を銃殺したかもしれません。総司令官だった蒋介石が、真っ先に逃亡した後でした。兵士達は、日本軍と戦う理由もなかったでしょう。本当に敵軍だったのなら、早々に逃走したでしょう。遺棄死骸の写真は無いので、真相は不明ですが、日本軍が入城した際に、大量の遺棄死骸があり、上記の様な大量の避難民が出る程、南京の街は大混乱に陥っていたのは事実のようです。
一方、2カ月後には、こうした露店が立ち並び、以前にも増して賑わいを取り戻したとあります。他の記事でも、南京市民が日本軍の側で笑っている写真を見ると、非常に平和的かつ友好的な関係であったとしか言いようがありません。8万の遺棄死骸については、「死亡」扱いで、そのまま解放だった可能性が非常に高いと考えます。
★★★
日本の敗戦後、蒋介石は、アメリカ軍と共に中国へ戻りました。蒋介石は、国外追放されており、中国の中国共産党や新政府と戦えるような軍隊は持っていませんでした。そのため、アメリカに中国全土を占領させ、再び、中国での独裁政権を復活させようとしました。
中国の一般市民は、かつての蒋介石の統治がいかに劣悪であったか知っていたため、当時、第3勢力として温存していた中国共産党と連合し、蒋介石と戦い、中国から完全排斥することに成功しました。蒋介石が敗戦した理由は、支援国のアメリカが、蒋介石の軍事支援を断ったからでした。
これは、アメリカが、4年間に及ぶ蒋介石と毛沢東の戦争の中、蒋介石に利用されていたことに気付いたからでしょう。東京裁判などを通じて、アメリカは、日中戦争の真実を知ったのでしょう。もしアメリカが蒋介石の支援を継続すれば、今度は、アメリカがイギリスと同じ状況に陥るだろうことは明白です。これを回避するため、アメリカは、蒋介石の軍事支援から手を引いたといえるでしょう。蒋介石は、実際には、アメリカ軍が居なければ、何も出来ないほど弱小勢力だったのです。
蒋介石は、2度目の中国追放後、台湾を「中華民国」とし、自分が「中国の正式な代表者」の如く振る舞いました。そして、生涯、中国本土を狙っていたと考えます。一般大衆の支持を得るには、また、アメリカを騙し続けるには、中国で自分が行っていた残虐行為については、誰かに押し付ける必要がありました。南京大虐殺事件を捏造したのも、その為であり、その他の残虐行為、例えば、中国での細菌兵器開発や人体実験も、全て、蒋介石の悪行でした。
しかし、アメリカは、「日本が中国を侵略し、中国人に残虐行為をしている」ので、日本と戦ったのでした。日本が残虐行為をしていないと、アメリカの戦争参加が「間違い」になってしまいます。日本に原爆を落とし、壊滅的な被害を与えて、アメリカが、今更、「アメリカの参戦は間違い」だったとは認められるはずはありませんでした。蒋介石は、アメリカの「苦しい状況」を利用して、自分の悪行を隠ぺいするため、日本のせいにしたのです。
日本では、終戦直後、アメリカのGHQにより、当時の戦争に関する資料は悉く没収され、焼却処分となりました。そのため、日本の無実の証拠は、ほぼ何も残っていません。写真や新聞などは、
」
このサイトに載せている「歴史写真」という月刊誌は、かろうじて残った貴重な歴史資料といえます。そして、歴史資料から得られる「真実」を辿れば、日本は中国侵略などしていないことは自然と判明するでしょう。
中国人の方々には、日本軍が当時何をやっていたか「真相」を知って頂き、一日も早く誤解を解いて頂ければと思います。
南京攻略(Nanjing Caputure)の際に、南京大虐殺事件は起きていません。一方、蒋介石により、中国の各地で残忍な大虐殺が行われた可能性は否定出来ません。
尚、中国での残虐行為は、蒋介石政府軍が行ったことです。中国共産党や中華人民共和国の人々は全く関係の無いことでした。
南京大虐殺事件、その他の中国での残虐行為は、日本も中国も、実際には、無実です。しかし、夫々が無実を訴えれば、相手が冤罪となります。
これらは、中国を追放された蒋介石が、日本と中華人民共和国の間に、不和が生じ継続するよう画策した結果です。お互いに、これ以上、間違った情報に騙されないよう、真実の歴史を知る必要があります。
南京の南京大虐殺資料館については、正しい歴史に基づき、中国の方々に、情報をご訂正頂きたいと思います。
いつか、再び、中国と日本と両国揃って、日中戦争(Japan-China War)での戦没者の慰霊祭を執り行えることを祈ります。