南京攻略の真相7-日本軍による救済活動

南京攻略の真相7-日本軍による救済活動

中国の都市は、都市の周辺を「高い壁」で囲った構造になっています。そのため、北京城、南京城という様な名称になっています。南京攻略では、日本軍は上海から南京までの移動に1カ月近く掛けていました。一般市民の殆どは、日本軍が到着する前に避難していました。

蒋介石政府軍は10万程度は残っていたようです。しかし、「南京攻略の真相3-12月13日城門突破」の通り、中山門を突破した後、もし本当に戦闘が有ったとしても、南京城内で、日本軍が蒋介石軍と軍事衝突したのは、たった半日でした。12月13日に城門突破とほぼ同時に南京は陥落しています。翌日の12月14日には、南京で、市民による臨時の新政府が成立しました。城外へ避難していた一般市民も続々と南京へ戻っていました。南京を占領した直後から、日本軍は、南京の復興(Revival)へ向けて積極的な支援を展開していました。

昭和13年月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)-支那事変写真 – 仁義に篤き我将士(Samurais with Good Will)

記事:
(右上)広い心、溫いなさけ、皇軍の将士ならでは見らる人情美である。写真は、南京陥落の最後まで、その地に踏みとどまつていた若い良民夫婦を慰めつつ、赤ん坊の手を執って優しくあやす我が兵士である。

(左上)南京に於ける敵の遺葉屍體は無慮八萬四千の多きに上ったが、その負傷兵等は、市内大小の病院を始め、主要なる官庁等に分割収容された。

寫眞は病院に充てられた外交部に、支那軍の負傷者を見舞いつつある我が兵士

(右下)南京の避難民の児童等(refugee children)に、トラホームの治療をしてやってみる我が赤十字救護班 。

(左下)同じく南京の避難民等をあつめ(gathering the refugees)、子供等に菓子を分ち與へつつある我が兵である。

注)支那軍=蒋介石軍

上記、1937年12月13日に南京が陥落し日本軍が入城した際、城内には多くの死骸が放置されていたとあります。戦闘は激しかったという話でしたが、蒋介石政府軍では、軍隊の総司令が10日か数週間以上前に逃亡した後でした。戦闘があったかも疑わしいと言えます。しかし、上記の記事にある通り、日本軍が南京へ入城した際に放置されていた遺棄死骸は約84000体だったようです。蒋介石政府は、3カ月に及ぶ上海戦線へ、南京からも相当な数が送ったでしょう。日本軍が到着した際、南京に残っていたのは10万程度でした。敵兵が8万4千も「戦死」であれば、蒋介石政府軍の8割以上が、たったの4日間で、それも、実質1日で、一気に戦死したことになってしまいます。それは幾ら何でも起り得ないでしょう。

一方、占領後は、蒋介石軍の兵士が大量に投降しています。投降した兵士の収容のみでも、相当な出費です。余りにも多いので、「戦死扱い」にして、そのまま解放したのではないでしょうか? 戦死であれば、誰が戦死したかは日本軍には解りません。また、戦死であれば、日本軍からも、蒋介石政府からも、兵士は一切処罰される必要もありません。兵士が存在し無いからです。そう考えれば、蒋介石政府軍から兵士を解放する「最も安全な方法」だったといえますし、当時の状況からすれば、それが最もあり得る話だったと考えます。

 

写真拡大ー蒋介石軍の負傷兵を見舞う日本軍兵士

上記は、日本軍が、南京占領での蒋介石政府軍の負傷兵を手当していた証拠写真です。余りに大量であったため、病院のベッドが足りず、収容用の施設に、写真の通り、床に布団(日本式寝具)を引いて寝るような状況だったようです。

敵軍の首都を占領した後に、兵士が、敵軍の「支那軍の負傷者を見舞いつつある」という状況は、一体どうしたら生まれるのでしょうか? これも、蒋介石政府軍では、内部分裂が起きており、その殆どが、蒋介石からは既に離反しており、結局は、日本軍の味方だったとする根拠の一つです。

 

写真拡大ー南京の避難民に菓子を配る日本兵

写真拡大ー南京の避難民の児童等(refugee children)を治療する日本軍

上記の写真は、日本軍が南京の中国人の一般市民に親切だったというより、当時、南京では、蒋介石の独裁により、一般市民が非常に苦しんでいた証拠だと思います。日本軍は、当初から、南京市民の救済支援を予定して、食料やお菓子を運搬し、また、負傷兵やケガ人の手当、上記の様な治療活動を予定していたと考えます。

当時の中国では、至るところで、中国人の一般市民が日本軍を歓迎してくれていました。多分、それだけ、蒋介石の治世は、一般市民とっては苦痛であったのでしょう。南京は、特に、蒋介石の直接支配下の都市でした。上記の南京の避難民に菓子を配る日本兵の後ろには、中国人の女性たちが「安堵して笑っている」様子が写っています。日本は敵軍のはずです。しかし、自分達の都市である南京が占領された直後に、人々が「この笑顔」です。蒋介石の統治が、余程酷かったとしか考えられません

南京攻略(Nanjing Capture)は「軍事攻略」ではあり、南京は占領されました。しかし、実際には、「南京市民の救済」が目的だったかも知れません。

 

植民地支配と国家財政の崩壊

上記の真実を、もしアメリカの一般市民が知っていたら、日本とアメリカがあのような熾烈な戦争で戦う必要は無かったでしょう。イギリスも、フランスも、中国の植民地化政策に拘るより、中国とも、日本とも、平和的な関係の構築に目を向けてくれたかも知れません。

他国の植民地化は、短期的に収益があるように見えて、実際には、国家経済を非常に圧迫します。絶対王朝時代、欧州の各国は、南北アメリカ、アフリカ、インド、アジア、などを、現地人を実質的に騙す方法で、強引に植民地化し、民衆を奴隷化しました。当然、植民地化された国では、「独立反乱」が度々起るようになりました。「反乱」の「鎮圧」のため「軍事紛争」が絶えず、「軍事紛争」により「治安低下」が生じました。結果的に、本国では「軍事的な出費」が「植民地貿易での収益」を上回る事態に陥りました。スペイン、フランスを始め、欧州での絶対王制が次々に崩壊した理由は、植民地化政策が原因でした。植民地政策に伴う巨額の軍事費用により、結果、国家財政が破綻したのです。

日本は、江戸時代以前の第一次植民地化危機で、国内内乱首謀者が多額の軍事借款を抱える「トリック」については理解していました。そのため、江戸幕府終焉の際の第二次植民地化危機を日本は乗り切りました。私が「基礎編ー植民地化政策の5段階」で説明した通り、日本は、欧州による「植民地化の戦術」を理解していました。そのため、仮に、日本が中国の侵略し、欧州の様な植民地化が出来たとしても、日本は、それが必ず国家財政破綻に繋がることは解っていたでしょう。

日本は、外国を西洋式に植民地支配すれば、短期的には「有益」であったとしても、中長期的には「不利益」になると理解していました。中長期の「不利益」を解消するために、支配国は、植民地を拡張せざるを得ません。それが、イギリスとフランスなどが陥った墓穴でした。当時の日本が、欧州と同じことを、それも中国で繰り返すなど有得ませんでした。

日本による投資政策

日本は、欧米型の植民地の限界を知っていました。だからこそ、アジアの植民地化を図って来たイギリスやフランスとは異なり、日本は多額の経済投資を行っていました。他国から搾取するのではなく、日本は他国の経済発展に貢献していたのです。日本は、経済投資に対して、リターンを得るという運営を目指したのです。日本が、満州各地や中国、東南アジアを始め、都市のインフラ整備など経済投資を行っていたのは、その為でした。実際に、日本人が、各地へ移住し、農地の開墾に貢献していました。他国での軍事紛争は、経済活動の大きな妨げになります。日本が、中国での内乱の回避に協力したのも、それが理由でした。

当時の日本の政策は、現在の国際協力プロジェクトに近い政策であったといえます。尚且つ、日本は、漢民族も含め、中国の5大民族が互いに対等に新しい政府を作り出す方針を打ち出していました。後の日本が支援して成立した中国の統一新政府、新支那中央政府は、中国の5大民族が集結した「連合国政府」だったのです。

蒋介石政府内には、張学良とその配下が、軍隊の人事や配属を決定出来る地位にいました。軍事クーデターの決起の際には、特に主要な都市で日本軍と大きな軍事衝突が起きないよう、張学良は、密かに、張学良の配下や同志を、重要拠点に予め軍隊を配置していました。そして、張学良は、蒋介石軍が大敗を繰返すことで、日本軍が、ほぼ全ての都市で「無血開城」できるよう段取りしたのです。北伐後、蒋介石の独裁に中国人は苦しんでいました。植民地化の危機からの脱出、治安維持の確保された社会、南部中部地域の経済的な発展など、中国人の方が、日本軍に突破口を開いて欲しいと考えていたと思います。それが日本が歓迎されて理由でしょう。