南京攻略の真相6-南京新政府(臨時政府)の誕生

南京攻略の真相6-南京新政府(臨時政府)の誕生

昭和12年(1937年)12月14日、南京陥落の翌日、南京、北京では、同時に、中国人による新政府が樹立しました。この史実は、現在の一般的な歴史では、多分、全く知られていないことでしょう。日本の敗戦後は、日本が支援した満州国、北京政府、そして、この南京政府も、全て、日本の傀儡政府と言われて来ました。

しかし、中国人とは、単純に屈するような人々ではありません。北支事変や第二次上海事変など「本当の歴史」を見れば明白です。中国人自らの力で、蒋介石の独裁から脱出しました。また、自分達の利益にならない相手の支配下に甘んじる人々でもありません。そもそも、日本の兵力では、中国で傀儡政府を樹立するなど不可能です。また、中国が植民地危機から脱することは、即、日本が植民地危機から脱することでもありました。旧北京政府派の中国人が日本と協力したのは必然だったといえます。そして、何より、張学良の功績は非常に大きかったといえるでしょう。

昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)-支那事変写真(其五)-南京に春立ちかえる

記事:

(右上)上海に於ける日支両軍戦闘開始以來、力戦奮闘五ヶ月、随所に頑敵を残滅して、遂に敵首都南京を占領したる皇軍将士の喜悦ば、正に何ものにも譬へがたきものがあり、今しも近く戦勝の新春を迎へんとして、兵士等は掛声勇ましく餅を搗きつあるのである。

(左上)皇軍の南京占領と共に、同市の支那側有力者間に於ては、直ちに南京自治政府設立の議起り、日ならずして是が成立を見たのである。写真は、多くの市民達、手に手に日の丸の旗を翳し、新政府成立式場に向いつつある有様。

(右下)南京の元旦、海軍部前に於ける我が陸戦隊の宮城遙拝式(Remote Palace  Ceremony)。

(左下)(原文)戦勝に心も勇む正月が近づき、日の丸の鉢巻姿も勇ましく陸戰隊の餅搗きである。

(左下)翻訳用途:戦勝し、心が奮いたつ思いの中、正月が近づき、陸戦隊の兵士達は、日の丸の鉢巻姿も勇ましく、餅搗きをした。

 

写真拡大ー南京での新政府(臨時自治政府)の樹立

上の写真は、南京占領(Nanjing Occupation)翌日の12月14日に「新政府」を樹立した際の写真と記事です。南京攻略(Nanjing Capture)では、日本軍の占領と同時に、城外へ避難していた中国人の一般市民が、南京城内へ戻って来ました。写真の通り、これほど多くの南京の一般市民が、日本の国旗を持って、新政府の成立を祝う式場へ向かったのです。

他の都市でも、日本軍が来ると、中国人の一般市民が、日本の国旗を持って歓迎してくれていました。しかし、私の知る限り、ここまで多くの市民が手に手に日本の国旗を持って歩く姿は、この写真だけです。南京は、蒋介石の政府首都であったため、他の都市よりも、一般市民への搾取が酷かったのかも知れません。蒋介石政府の崩壊を最も望んでいた人々だったかも知れません。

政府の首都で、日本の南京占領後に、ここまで一般市民が日本を歓迎してくれていたことは、現在も全く知られていません。

 

写真拡大ー南京での新政府(臨時自治政府)の樹立

手前に写る兵士は、日本軍の兵士です。

新政府樹立の式典会場へは、非常に多くの南京市民が向かっており、日本兵が数十メートル毎に警備と誘導で立っていますが、ライフルも日本刀も持っていないようです。南京市民からすれば、本来は「敵軍」であるはずの日本軍の兵士が、南京を占領したにも関わらず、ここまで無防備で、この大量の人々の側に立っていられる状況でした。

これは、日本兵が他の中国の街を歩く写真でも同じです。日本兵が武器を持たなくても良い程度には、日本軍の兵士と中国人の民衆は「平和的関係=友好関係」にあったようです。 日本が、本当に中国を侵略していたのであれば、このような写真が「当時の月刊誌」に掲載される訳がありません。また、この兵士の太った身体を見れば、当時「日本兵が飢えていた」など起り得ません。一体全体、どうして、このようなデマが、これほど世界規模で広まってしまったのかが疑問です。日本軍がもし南京市民を虐殺や惨殺していたとすれば、上記の写真のような状況は絶対に生まれるはずはありません。

 

昭和13年4月(1938年4月)発行「歴史写真」
昭和12年2月(1937年2月)-珍しや蒋夫妻(蒋介石夫妻)

記事&写真:

(右) 堅子遂に大局を觀るの明なく、 おぞましくも長期抗日を策して、その身は日毎沒落の 一路を辿る蒋介石 とその妻宋美齢。 寫真は昨年十一月 彼等が南京脱出の直前に撮影したるもの。
(左上) 南京避難民區の露店風景。
(右下) 南京自治委員購賣券交換所に集る避難民。
(左下) 杭州にて支那そばに群る人々

 

写真拡大ー南京自治委員購賣券交換所に集る避難民

上記は、「南京攻略の真相4- 蒋介石夫妻の逃亡」で紹介した記事です。この記事は、蒋介石政府の潰滅後、新たに発足した臨時政府(=南京自治委員会)が、政府として十分に機能していたことを示す証拠でしょう。食料や日用品などの購買券が配られたようです。購買券の交換所へ多くの避難民が殺到しています。既に、新政府で、南京攻略での中国人の避難民に対する救済支援が行われていた証拠です。南京では、日本軍は、4日間しか「戦闘」しませんでした。しかし、群がるほど切迫した避難民が出る状況だったようです。逃亡した蒋介石と蒋介石政府軍(正規軍)が、一般市民から財産や食料などの搾取を行ったのかも知れません。

当時の「歴史写真」では、南京での新政府樹立の記事は、北部の北京での新政府樹立に比べると、掲載数もとても少ないようです。そのため、南京攻略(Nanjing Capture)により、蒋介石政府が完全崩壊した事実については、現在も殆ど認識がありません。

当時の国際連盟は、アフリカ、インド、アジアなどを植民地化していた欧米諸国が中心となり立ち上げた国際機関でした。そのため、国際連盟は、蒋介石に対抗する日本や、満州国、更には北京政府が立ち上げた「新政府」を、初めから承認する気はありませんでした。当時の政治情勢を考慮すれば、特に不思議は無いでしょう。

蒋介石は、南京攻略の前月に早々に逃亡しており、その後も、重慶などへ政府を移したことにして、「中華民国の政府と正式代表」を名乗り続けていました。蒋介石は、イギリスの傀儡でした。そのため、南京での新政府樹立の記事については、欧米諸国では、大きく報道されることは無かったのかも知れません。

 

南京攻略に関する大きな誤解

私が「南京大虐殺の真相」ブログを立ち上げる以前は、「南京攻略(Nanking Capture)では日本が大敗した」という歴史認識が一般的でした。その認識を基に、「日本軍が南京大虐殺を行った」と日本人全員が信じ込むほど、数々の書籍が出版され、多数のテレビ番組が報道されていました。幸い、現在では、南京大虐殺が蒋介石による捏造事件であった事実が、少しづつ、一般認識として広まりつつあります。しかしながら、かつての中国の唐の自己崩壊と同様に、蒋介石政府が自己崩壊により壊滅したという認識は依然として全く無いでしょう

通常、戦争を経て、他国を占領した場合は、占領国家が統治者になります。日本も、アメリカに敗戦した後は、アメリカのGHQの占領下となり統治下に置かれました。日本軍が中国を侵略するため占領したのであれば、単に、日本政府が、日本政府として、新政府を樹立すれば良かったことです。占領した市民による「自治政府」など成立させる必要はありません

ですが、南京攻略(Nanking Capture)では、日本軍の占領が完了した翌日に、南京の中国人市民の有力者間による新政府が発足したのです。新政府発足の祝賀式典会場への一般民衆の誘導警護を日本軍が行っていました。日本は、欧米諸国とは、根本的に異なる対外政策を展開していました。都市の占領はしましたが、侵略するためでは無かったのです。

この「日中戦争の真相(The Truth of Japan-China War)」サイトを通じ、中国の方々に、世界の方々に、「真実」を知って頂き、日本への誤解を解いて頂きたく思います。日本と中国は、本来、もっと「仲良く」出来る民族同士であると思います。

現在の中国共産党は、蒋介石と「長期の戦争状態」であったことを知らないようです。張学良の西安事件まで、約10年は、蒋介石政府と中国共産党は深刻な戦闘状態にありました。しかし、この戦争の事実を知れば、中国の人々も日本人も、日中戦争(Japan-China War)時代、中国共産党と日本とは、実施的に「味方同士」であったという「真相」が見えてくるはずです。 敵の敵は味方だということです。

南京攻略(Nanjing Capture)にしろ、南京大虐殺事件にしろ、「日本軍が中国で残虐行為を行ったという話」は、蒋介石が捏造しました。蒋介石は中国共産党とも、日本とも敵対関係でした。日本軍による残虐行為というデマは、蒋介石が、日本と中国の不和の原因となるよう、戦後に残した「置き土産げ(leftover)」のようなものです。双方に誤解が生じるように画策したのです。日本が無実を訴えれば、中国が冤罪となり、中国が無実を訴えれば、日本が冤罪となる構図です。両国とも無実であるため、決着が付かず、不和が継続するのです。

我々は、こうした策略にこれ以上騙されることなく、お互い尊敬し合える「友人」に戻るべきと思います。