南京攻略の真相5-日本軍の南京入城式

南京攻略の真相5-日本軍の南京入城式

南京攻略(Nanjing Capture)では、昭和12年(1937年)12月10日から12月13日のたった4日間で、日本軍は首都南京を完全占領しました。蒋介石と宋美齢は、日本軍が到着する前に南京から逃亡し、蒋介石政府軍は総司令官を失い総崩れでした。南京では、避難していた一般市民が市内へ戻り、12月14日に「新政府」を樹立します。

昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)-南京入城式の盛觀

記事(原文):

支那事勃發以來、 我が海陸軍相呼應し て、聖戰を績くる事 茲に六ヶ月、敵の首都南京城る遂に陥落 し、建國以來曾て見ざる敵首都入城の盛典は、愈々十二月十七日を以て舉行せられ、松井最高指揮官を始め〇〇〇、長谷川支那方面艦隊司令長官以下陸海軍各將星參列、偉勲の空軍亦是に參加して、盛觀を極めた。

翻訳用途:

支那事(China Incident)勃發以來、 我が海陸軍は相互に呼応し て、聖戦を続ける事、ここに六ヶ月、敵の首都南京城る遂に陥落した。建国以来かつて見ない敵首都入城の盛典は、いよいよ十二月十七日を以て挙行された。松井最高指揮官を始め〇〇〇、長谷川支那方面艦隊司令長官以下陸海軍各將星が参列した。大きな功績のあった空軍も是に參加して、盛観を極めた。

寫真の(右) 當日の松井大将。
(左上)  戰没 英靈の參列。
(左下)  中山門(Zhongshan Gate)より入城する 松井大将(General Matsui)以下の諸將

昭和12年(1937年)12月13日に、南京の陥落後、12月17日に、南京の正式な入城式が行われました。南京攻略では、翌日12月14日には、南京で、蒋介石政府に変わる新たな政府が「臨時政府」として樹立しました。同時に、南京郊外などへ避難していた中国人の一般市民が続々と戻りました。入城式は、戦没者の慰霊祭の準備などもあったため、正式な式典は4日後になったようです。また、陸軍だけでなく、海軍と、空軍も参加する盛大な式典でした。上海などに駐留の軍隊は、南京雄陥落後に移動したでしょうから、4日後というのは妥当な日程だったといえます。

写真拡大-南京へ入城する松井大将

 

昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)
-青史に輝く南京入城式

記事(原文):

昭和十二年十二月十七日、皇軍百萬の勇士が、力戰奮闘、遂に克く攻略したる敵の首都南京入城式の當日である。此日大 空一碧、地には軍靴の音る嚴かに、蜿蜒長蛇の列、空には陸海軍機の歓喜と榮光に輝く亂舞。將士の叫ぶ萬歲の唱和は、 遠く海を越えて、銃後の人々の胸奥にまでも響きわたつた。

翻訳用途:

昭和十二年十二月十七日、百萬にも相当する皇軍の勇士が、力戦奮闘、遂にようやく攻略した敵の首都南京入城式の当日である。この日、大空は碧く、地には軍靴の音る厳かに、延々続く長蛇の列、空には陸海軍機の歓喜と栄光に輝く乱舞。将士の叫ぶ万歳の唱和は、 遠く海を越えて、銃後の人々の胸奥にまでも響きわたった。

写真:

寫真は即ち當日の光觀で
(右上) 御馬上、堂々入城あらせらる〇〇〇。
(左上) 入城する將士の 先登に立つて進む海軍の軍楽隊。
(右下) 中山門(Zhongshan Gate)を入りて市中を行進する處、先登は松井大將(General Matsui)。
(左 下) 松井大將(General Matsui)以下が 式場たる國民政府に到着のところで、x印は即ち同大將(General Matsui)である。

注)蜿蜒長蛇(えんえんちょうだ):行列などが長い蛇のようにうねりながら、長々と続いていること

上記記事には、文字通りですと、「皇軍百万の勇士」とありますが、実際は南部地域で約3万人程度しかいませんでした。南京へは、当時、派遣された日本軍の半数以上が集結し、この大式典に臨んだといえます。日本軍が、蒋介石の首都南京を陥落し、このような盛大な式典が行える状況にいたった事を、中国全土に示すためだったでしょう。

現在の歴史では、殆ど知られていませんが、南京攻略の完了した翌日12月14日には、北京、南京、南北の政府所在地で、夫々、同時に、新政府(臨時政府)が樹立しました。もちろん、中国人による政府です。日本は、満州も含め、傀儡国家、傀儡政府を作ったという評価になっていますが、歴史の流れを「事実」に基づき検証し直せば、北支事変と第2次上海事変の目的が、蒋介石政府から、北支5省と内蒙古西域とで、夫々自治政府が分離独立することであったのは明らかでしょう。

だからこそ、この12月17日の南京入城式は、盛大な祝典でなくてはならなかったのです。蒋介石政府の崩壊を意味したからです。

写真拡大-南京入城パレードの音楽隊

上記は、日本海軍の音楽隊です。音楽隊がパレードの先陣を切るような「祝典」だったのです。

日本軍が勝利出来た理由は、日本軍が強かったわけではなく、蒋介石政府が、既に、政府分裂、政府崩壊していたからです。北支事変と第二次上海事変は、既に、崩壊直前であった蒋介石政府に「最後の一手」だったに過ぎません。

蒋介石政府は、政府発足以来の多額の軍事借款で財政破綻していました。その返済原資を北部で産出される天然資源に求め、国内での大規模な内乱の原因を作ってきました。一方、イギリスの完全な傀儡政府であったことから、ソビエトと対立するイギリスの対外政策を反映し、中国共産党とも長期の戦争状態が続いていました。

蒋介石をこのまま放置すれば、中国も、他のアジアやインドと同様に「植民地化」されるであろう事は、中国人が理解していました。北部政府が直接戦争すれば、中国国内で大規模な南北政争の再開になったでしょう。既に2度の大規模な南北戦争を経ていました。3度目の内乱を回避するため、中国が、日本という「外国」を盾にして、中国全土を、蒋介石の支配から独立する戦術を取ったのです。

南京攻略(Nanjing Recapture)の際に、日本人が中国人に対して残虐行為など行う理由は全くありません。蒋介石政府軍の兵士は、表向きは敵であっても、実質的には、日本軍の「味方」だったからです。

蒋介石政府軍は、兵数から見ても275万人です。1936年4月時点で、戦闘機だけで1000機です。タンクが500~600台。戦艦も10台以上は保有していました。

一方、日本軍は、10万にも満たない小規模な軍隊でしかありませんでした。日本は、北支へも3万程度の派兵をしており、上海南京方面も約3万~3万5千も送れれば良い方です。蒋介石政府軍は、普通では、日本が、絶対に、勝てない相手でした。日本が勝てた唯一の理由は、政府が自己崩壊していたからです。全ては、蒋介石の度重なる「悪政と独裁」の結果だったといえるでしょう。

このサイトで説明の通り、中国とイギリス、中国とアメリカの間に、何があったのか「過去」を知れば、現在の中国の動向にも新たな視点が加わると思います。中国は大国です。ですが、過去の戦争は、中国にとっても「大きな傷」であることは確かです。現在の動向もまた、過去の戦争から生じている恐怖や不信が根本にあるといえるでしょう。

日本に対しても、長年の誤解が解けず、欧米諸国と同様に、日本は脅威や恐怖を引き起こす相手かも知れません。これは、アジアの他の国々にとっても、同じかもしれません。ですが、日本は中国を侵略していたのではありません。

中国の方々に、アジアの方々に、このサイトをお読み頂き、日本への誤解を解いて頂けることを心から祈ります。