南京攻略の真相3-12月13日城門突破
蒋介石政府は、中国全域では275万人の兵力であり、上海だけで40万の兵力を誇っていました。上海戦線では、日本とは、約13倍の兵力差でした。日本軍は南部領域で大体3万5千人程度でした。12月3日には、上海で、日本軍の兵士1万人による行軍パレードがありました。南京陥落の前に、上海で行軍パレードを行ったところを見ると、12月3日時点で、既に、南京の陥落は確実だったのかも知れません。パレードの直後に、上海から本軍が南京に向ったとしても、徒歩での移動であれば10日程度は掛るでしょうか。パレード組の到着に合わせて、入城の日程を決めた感じさえあります。ここからも、南京では、上海のような「激戦」は無かったといえるでしょう。
昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)-血湧き肉躍る南京攻略戰
記事:
過去幾年、國民政府が全力を傾けて防備を堅めたる南京城は、その都市自體が既に一個の尨大 なる要塞と化し、難攻不落を誇ったのであるが、 我軍の猛攻撃は、要塞攻略戦に於ける世界戰史上空前の短時日たる四日間を以て、難なく是を陥落せしめ、城の内外に遺棄したる敵の屍體の數だけにても八萬の多きに達したと謂はれてゐ。
注)尨大(ぼうだい):形や内容などが非常に大きいさま。膨大、莫大。
南京攻略は、たったの4日間でした。普通に考えても、城壁を破壊するだけ数週間は掛りそうな南京城を4日で攻略など不可能です。
蒋介石夫妻は、11月中には南京を脱出していました。残った兵士らが「抵抗した」可能性はあったでしょう。また、蒋介石政府軍は、撤退の際には、鉄橋などを破壊し、追撃を阻止したり、また、各地で略奪や強盗など暴挙を繰返していました。逃亡する味方の兵の射殺なども行っていた可能性があります。しかしながら、日本軍は、南京の城内へは、難なく入城しており、殆ど戦った感じもありません。
しかし、上記の記事には、「城の内外に遺棄したる敵の屍體の數だけにても八萬の多き」の記載の通り、遺棄死骸が8万人も城の内外に放置されていたようです。たった4日間の戦いで、蒋介石政府軍に8万人以上も戦死者が出るとすれば、相当に激しい爆撃でも無い限り不可能でしょう。南京では、日本軍は、城門突破に3日掛り、4日目に入城して、そのまま占領でした。日本軍が城内で戦ったとは考えれません。
また、もし日本軍との戦いで、これほど多くの人々が戦死したという状況があれば、入城後に、中国人の一般市民が、日本人を歓迎するような事態は起り得ません。そこで8万人もの死体が遺棄されていたと記載されています。日数的にも日本軍には不可能でした。8万人が事実であれば、蒋介石政府軍が逃亡前に味方の兵士を大量処刑したか、または、日本軍が「大量すぎる捕虜を戦死扱いにして、軍事処罰無しで、そのまま解放」したか。
昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)-南京占領と海陸軍の威容
記事(原文):
(右上)南京城中山門(Zhongshan Gate)に殺到した大野部隊の一部は十二月十三日午前零時を期し、あやめもわからぬ闇の中を城門に肉薄、群る敵を皆殺しにして午前三時十分遂に同門を占據した。
翻訳用途
(右上)南京城中山門(Zhongshan Gate)に殺到した大野部隊の一部は十二月十三日午前零時を期し、一歩先も見えない闇の中を城門に肉薄した。群る敵を皆殺しにして午前三時十分遂に門を占據した。
写真:
寫真は即ち中山門(Zhongshan Gate)一番乗りの勇士
(左上) 城門の鍼扉に誌されたる中山門(Zhongshan Gate)占據の歴史的記錄
(右下) 南京城門に於ける特異の建築物たる譚延閣邸(Tanyange mansion)が 我軍の手に依り完全に保護されたる有樣。
(左下) 揚子江上より堂々南京を燃する我が無敵海軍の艦艇である。
上記の記事も、非常に不可解です。日本軍の部隊の一部が、午前零時に南京城の城門に忍び寄るまでは解りますが、当時は、今と異なり電灯もなく、敵が群がって来ても、暗闇では相手が全く良く見えない状況でしょう。また、日本軍は、圧倒的に少数でした。蒋介石政府軍が群がって来たら、日本軍の方が確実に全滅だったでしょう。更には、本当に群がる位の人数の敵兵(蒋介石軍の兵士)がいたとすれば、日本軍がたった3時間で城門が占拠出来るわけはありません。蒋介石に自分の軍隊の裏切りが発覚しないよう、雑誌編集社が、ここでも「激戦だったという嘘を演出」したのでしょう。
写真拡大ー中山門占拠の歴史的記錄
上記の写真は、日本軍が南京の中山門を、12月13日の午前3時過ぎに、ようやく突破したこと示す記事です。南京攻略は、12月10日から12月13日の4日間でしたが、上記の写真証拠から、南京の城内(都市内)へ入ったのが、12月13日だったということになります。
以下の写真の通り、北京、南京など、中国の都市は周囲を「大きな壁」で囲った構造となっています。そのため、都市を「城」と呼ぶのですが、都市を陥落するには、まず、この分厚く高い城門を突破する必要があります。
南京攻略は、12月10日午後から攻撃は開始しましたが、最初は南側の中華門(Zhonghua Gate)を狙ったようです。しかし、中華門(Zhonghua Gate)は、頑強過ぎて、少数の日本軍では全く歯が立たず、東側の中山門(Zhongshan Gate)の突破を試みたようです。しかし、結局、12月13日の午前3時までは、城門が突破出来ませんでした。
城門の突破までは、日本軍の攻撃は、南京城の城外からのみであり、城内(都市内)では、戦闘らしい戦闘は起きていなかったということです。
昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)-昭和十二年十二月十三日南京城陥落す
記事(原文):
大上海を中心とする江南の戰場に、敵兵數十萬を殲滅して、世界戰史上未曾有の偉勲を樹てたる皇軍は、敗走の敵を急追擊破して、忽ち敵の首都南京城に迫ると共に、最高指揮官松井石根大将は、一應敵に降伏を勧告したるも、頑迷不戻の彼れは、毫も自ら顧みず、飽までも蟷螂の斧を揮はんとしたので、今は詮なく、十二月十日午後一時、遂に總攻擊開始の命令一下、南京包圍の體勢に在った全軍将士は、時こそ至れりと許り、勇猛果取、神も避くる奮闘に、四書夜の力戰、克く敵兵十萬を屠つて首都南京城を完全に占領し、國民政府の屋上高く大日章旗を眺した。
翻訳用途:
大上海を中心とする江南の戦場に、皇軍は、敵兵数十万を残滅し、世界戦史上、未曾有の偉勲を樹てた。皇軍は、敗走の敵を急追撃破して、忽ち敵の首都南京城に迫った。最高指揮官の松井石根大将は、一応、敵に降伏を勧告した。しかし、頑迷不戻の彼らは、いささかも自らを顧みず、飽までも蟷螂の斧を揮うごとく抵抗した。今は、仕方なく、十二月十日午後一時、遂に總攻擊開始の命令が下った。南京包囲の体勢に在った全軍将士は、時こそ至れりと許り、勇猛果取、神も避けるであろう奮闘に、四昼夜の力戦を行った。日本軍は、克く敵兵十万を屠つて首都南京城を完全に占領し、國民政府(蒋介石政府)の屋上高く大日章旗を眺した。
写真:
寫眞の左上 、南京の要衝 中山門を撃破したる我が精鋭部隊が堂々入城しつつある光景。
又右下は畑の中に軍旗を擁して南京進撃の命を待つ〇〇部隊である。
上記の記事によると、首都南京に残っていた蒋介石政府軍は約10万人だったようです。上海では40万人でしたので、首都防衛にしては、非常に少なかったといえます。一方、日本軍の方は、せいぜい1万人程度の兵力だったでしょう。上海全域で、陸軍海軍合わせて、約3万ほどの兵力でした。
上海陥落後の警備要員も十分に残す必要がありました。日本軍は、治安維持のため、上海周辺にも分散していました。12月3日には、上海で日本軍1万人のパレードがありました。南京までは500kmの距離(東京ー名古屋間)です。仮に、翌日4日から日本軍が南京へ移動を開始しても、徒歩で1日40Kmとして、12~13日は掛ります。12月10日から攻撃開始でしたが、上海からの日本軍の後続隊(本隊)の到着を待ったのか、城壁が分厚くて壊せなかったか、12月13日に、ようやく南京の東側にある中山門を突破しました。
更には、中山門の突破と同時に、南京を陥落したことになります。
そのため、南京攻略は4日間ですが、厳密には、たった1日だったといえるでしょう。
南京も、北京と同様、ほぼ「無血開城」状態だったといえるでしょう。
昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」
昭和12年12月(1937年12月)-支那事変写真-南京既に陥落す
記事&写真(原文):
(右上)事變勃發以来、我が海空軍の南京た爆擊したるもの百十数回の多きに上り、敵の軍事樞要部は悉く潰滅せしめられたのであるが、我が空軍の襲撃ある毎に、南京中の要所々々にば、公共防空壕が設けられてあって、 市民は我勝ちにその中に避難した。寫眞ば即ちその防空壕の一 つ。
(左上) 南京中山路一番乗の大野部隊が、名譽の軍旗を捧げて萬歲を叫びつつ ある有様。
(右下) 既に南京城內に殺到したる我が砲兵部隊が、 街路上に砲を置きたるまま 、しばし休憩しつつある光景。
(左下) 中山門一番乘りの大野部隊が、我軍の爲めに爆破されたる城門上に於て萬歳を唱える有様である。
翻訳用途:
(右上)事変勃発以来、我が海空軍の南京た爆擊したるもの百十数回の多きに上った。敵の軍事樞要部は悉く潰滅された。南京中の要所々々にば、公共防空壕が設けられてあって、 我が空軍の襲撃ある度に、市民は我勝ちにその中に避難した。寫眞ば即ちその防空壕の一 つ。
(左上) 南京中山路一番乗の大野部隊が、名誉の軍旗を捧げて万歳を叫びつつ ある有様。
(右下) 既に南京城內に殺到したる我が砲兵部隊が、 街路上に砲を置きたるまま 、しばし休憩しつつある光景。
(左下) 中山門(Zhongshan Gate)一番乘りの大野部隊が、我軍に爆破された城門上で万歳を唱える有様である。
南京攻略では、南京での地上戦を最短で終わらせるために、海軍の空軍隊による軍事拠点への爆撃が行われていたようです。上海での日本と蒋介石政府との軍事紛争勃発から、約3か月間に、百十数回、南京を空爆したようです。日本軍は、極めて少数な上、戦闘機や爆弾なども、蒋介石政府軍に比べ、かなり劣っていました。そのため、軍事拠点に絞っての攻撃に出たようです。南京は、蒋介石政府軍の本拠地であり、軍事拠点も多かったため、空爆の回数も非常に多かったようです。そのため、市街地には、公共防空壕が設けられていたようです。
この空爆で、なぜ南京の城門や城壁を破壊しておかなかったのかが疑問が残ります。城門や城壁は歴史遺産ですし、破壊すれば、一般民衆が巻き添えになる可能性が高かったからかも知れません。百十数回の爆撃であれば、もう少し、爆破された軍事施設などの写真があっても不思議ではないのですが、上海と異なり、そうした写真は雑誌「歴史写真」には殆ど掲載されませんでした。
一方、記事では、南京攻略も、相当な激戦であったように書かれています。12月10日から12月12日までは、南京城の城門を突破出来ていませんでした。しかし、12月13日に城門突破と同時に南京は陥落しました。本当に戦闘があったのかさえ疑問を感じます。
そのため、歴史写真では、記事には「激戦を演出」したような感じを受けます。蒋介石や蒋介石の支援国を騙すと同時に、支援国であったイギリスや、同盟国のフランス、アメリカなどの国々に、日本軍が非常に強いことを誇示する意図があったかも知れません。特にイギリスには、圧力を掛け、中国からの撤退を促す意図があったのかも知れません。
この「歴史写真」という月刊誌は、写真掲載が中心です。日本語が解らない外国人にも情報が伝えやすかったといえます。それを意図して作られたかは不明ですが、対外的な情報操作には効果があったといえるでしょう。